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眠れる森の君のため Ⅺ

その日の午後、昼休みに野菜ジュースだけを飲んだ柴田は、もう他に何かを食べる気にならなかったので、事務所にある唯一の喫煙スペースで煙草を吸っていた。就業時間外にはそこに喫煙者が集まることが多かったが、今日はどうしたことか、柴田ひとりしかいなかった。誰かいれば、そこで他愛無い会話をすることくらい、事務所で鬼と呼ばれている柴田もする。けれどひとりなら煙草をふかしながら空を見上げることくらいしか、することがない。織部のことで頭が痛い数日間だったが、ようやく事の真相も分かって、織部も一応適当ではあったが謝りを入れてきたので、いつまでも怒っているわけにもいかないし、表面的には許してやろうと思っていた。あれから逢坂にはまだ会えていなかったが、今日は電話でもしてちゃんと報告しておこうと思った。自分のことより何より、逢坂をそんな形で裏切ってしまったことが、柴田はずっと引っかかっていた。それにしても冷たい目をした逢坂相手に、別れたくないなんてよく言えたなと思いながら、柴田は流れる雲を目で追った。必死だといつも言えないことも、急に口から出てきたりするものなのか、そんな風に言えたことは一番柴田が吃驚している。 (でもよかった、ほんとに。しずかのことを裏切ってなくて) その時がちりと扉の開く音がして、反射的に柴田はそちらを見やった。開いた扉から入って来たのは天海で、はっとして柴田はその背筋を伸ばした。そしてまた朝に織部が妙なことを言っていたことを、思い出してさっと青くなる。天海が入ってきたタイミングで出て行ったら、流石に感じ悪いよなぁと思いながら、天海がこちらを向くのに合わせて会釈をする。それにしても今一番会いたくないのに、ふたりきりになってしまった。誰でもいいから早く誰か来てくれと、祈っても天海を吐き出した扉はびくともしない。 「柴」 「え、あ、はい」 急に名前を呼ばれて、また背筋を伸ばして柴田は返事をする。天海は柴田のほうは全く見ていないで、手元でスマートに煙草に火をつけた。 「織部が迷惑をかけたな、悪かったよ」 「・・・あ、いや・・・元は俺が悪いんで・・・」 「お前は悪くないよ、あいつが悪い。ちゃんと注意しておいたから、また一緒になったら面倒見てやってくれ。根は悪い奴じゃないんだ」 そこまで言うと、天海はふっと体の向きを変えて、柴田のことを正面から見やった。そんな風に言われるとは思っていなかったので、柴田は混乱しながらそれに返事をしようとして、一体どんな風に返事をしたらいいのか全く分からなくなってしまった。 「・・・あの、アマさん」 「なに」 「なんで、そんな・・・織部のこと」 「あぁ」 「アマさんの班でもないし、な、なんか親戚筋とかなんですか?」 「そんなわけないだろ。別にただ、懐かれてるだけだ」 「・・・はぁ・・・そうなんですか・・・」 天海のその時の答えでは、全く納得がいかなかったが、それ以上突っ込むこともできずに柴田は失速してしまう。柴田が真中に憧れてこの事務所に入った時、その時まだリーダーでなかった3つ上の天海が教育係についてくれていた。その時から天海は、にこりともしない愛想の悪い男であったが、それでクライアントにも仕事相手にも煙たがられるどころかむしろ気に入られていて、それから柴田はただ愛敬を振り撒けばいいのではないことを学んだ。凛としてちゃんと仕事をしていれば、媚などいらないことを、その時まだ中堅だった天海は知っていたのだと思う。その時の背筋の伸びた背中とか、低い一定の口調とか、そういうものを柴田はよく覚えている。この事務所に入って、はじめてのことはほとんど天海に教えてもらったから。柴田はまだ天海の背中を見ていると思っているし、相変わらず淡々と仕事をこなして定時に切り上げても、ちゃんとそれで機能している天海班のことを、柴田は柴田の尺度で劣等感を抱いているし、尊敬している。 「なに」 その誰にも脅かされないみたいな美しい顔を、ただ黙っている柴田に向けて、天海は短くそう言い放った。はっとして、柴田は我に返る。昔のことを思い出していた。そう言えばこんな風に、天海と話すのは久しぶりだったような気がする。真中は柴田と天海のことをあまり相性が良くないと思っているのか、教育期間が終わるとすぐに班も離された。柴田がまだリーダーをやっていた頃は、天海班と抱き合わせで仕事をすることもあったが、その時は必ずと言っていいほど、リーダーの天海は違う仕事をしていて、柴田は意図的に避けられているのではと、頭を悩ませることもあった。天海にそれを直接尋ねたことはなかったけれど。そうやってどんどん接点がなくなっていって、今では挨拶を交わすくらいの存在でしかない。 「・・・いや、アマさんとこんな風に話すの、久しぶりだなと思って」 「そうか、お前忙しいからな」 「アマさんだって、忙しいでしょう。いつもすいません、面倒な案件ばっかり、B班に押し付けちゃう形になって」 「別にいいよ。困るのは矢野で、俺じゃない」 「・・・はは、それはちょっと、矢野が可哀想っていうか・・・」 言いながら笑って、柴田は天海の横顔を見ていたけれど、天海はそれが冗談だったのかそうじゃなかったのか、判別ができないくらい無表情だった。でも意外と、ちゃんとコミュニケーションを取れていることに、柴田は自分で吃驚していた。もっと冷たくあしらわれるかと思っていたけれど、天海の言葉は決して優しいわけではなかったが、柴田の心を不用意に突き刺しはしなかった。 「はは・・・」 「何笑ってるんだ」 そう思うと思わず口から笑いが漏れたが、天海は眉間にしわを寄せた怪訝そうな顔を柴田に向けて、その意味は本当に分かっていなさそうだった。ずっと心のどこかに天海のことは引っかかっていて、会議でその姿を見るたびに、天海班の完璧な報告が上がってくるたびに、それがいつも柴田の心の柔らかいところを突き刺して、なんだか取れない魚の骨みたいだった。天海が柴田に対してくだらない劣等感を抱いているみたいに、多分柴田もそれとおんなじ尺度で罪悪感を抱いていて、それが余計に天海の高いプライドに触るのだろうと思っていて、分かっていたけれど、知らないふりをすることも自分にはできそうもなかった。 「いや、俺、アマさんに嫌われてるってずっと思ってたので、こんな風に話ができるなんて・・・―――」 「嫌いだよ」 「・・・え?」 「だから嫌いだって言った、お前のこと。自分より良くできる後輩のことなんて、嫌いに決まってるだろ」 「・・・―――」 柴田が絶句するのを見ながら、天海はふうとピースの煙を外に向かって吐き出して、天海は天海でその時柴田に向かってそうやって自分の気持ちを吐露できたことに少しだけ驚いていた。こんなこと本当は言わなくていいし、言うだけ無意味だし、自分がそれで惨めになることだって本当は分かっていた。だけど柴田の嬉しそうな顔を見ていたら、何となく口が滑って本当のことを言ってしまった。 「俺は好きです!」 「・・・は?」 「いや、だから、でも、俺はアマさんのこと好きだし尊敬してます、ずっと!アマさんが俺のこと嫌いでも!」 叫ぶようにそう言った柴田の強い目のことを、天海はきっと忘れないだろうと思った。 「・・・お前なんか、織部に似てるな」 「えぇ!?なんで!あんなのと一緒にしないでください!」 その目が覚めるような空の青のことも。 fin.

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