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Worker in the Darkness Ⅴ

「おー・・・いたいた」 事務所で唯一の喫煙スペースになっているベランダに続く扉を開けると、スタンド灰皿の近くのベンチにブラックのスーツの上にコートを着た織部がひとりで座っていた。定時はとっくに過ぎていて、あたりは真っ暗で外は白く息が残るほどには寒かった。佐竹が声をかけると織部はぼんやりした目を入り口に向けて、佐竹と分かると溜め息を吐くみたいにまた元の体勢に戻った。佐竹は一方的にではあったが織部とは気が合うと思っていたし、同僚ではあるけれどその前に友達だと思っていた。織部と同じ大学出身の須賀原は、佐竹がそんな風に言うのを、なんでそんな風に言えるのか分からないみたいに眉をひそめることもあったけれど、ともかく佐竹はそう思っていたし、織部のことはよく分かっているつもりだった。 「探したぞ、織部。お前いつから喫煙者になったんだよ」 「なんだよ、タケ」 織部は渋い顔をして、佐竹のそれには答えなかった。ちらりと見やると側に鞄も置いてあり、もう帰る直前みたいだけれど、ここで一体何をしているのだろうと、事務所内を探し回った佐竹は思わざるを得なかった。織部のことはよく分かっているつもりの佐竹は、織部がタバコを吸わないことも知っていた。けれど今彼は喫煙スペースに座っていて、タバコの箱を握っている。 「聞いたぞ、お前、西利ちゃんから」 「・・・あの、クソ女・・・」 言いながらまた溜め息を吐く。そんな風に言いながら、どこかそのことで自分が織部を探していたのを知っていたみたいだなと佐竹は思った。そしてベンチの空いているスペースに腰を下ろす。佐竹も喫煙者ではなかったから、ここに来るのは今日みたいに人探しの用事くらいだった。 「なにピリピリしてんのか知らないけど、西利ちゃんに当たることないだろー」 「・・・悪かったよ、お前から謝っといてくれ」 「自分で謝れよ、子どもじゃないんだからもうさぁ・・・」 織部なら自分の非を認めるだろうと思っていたけれど、あまりにもあっさりしていて、佐竹は少し拍子抜けした。本当に腹の虫の居所が悪かっただけなのかと、織部の手の中で歪むピースの箱を見ながらぼんやりと思う。織部は先輩である白雪や上司の夏目に大変な仕事を押し付けられるのが嫌で、未だになんとなくその責任という名前から逃げ回っているような気がする。何か大きなプロジェクトが所内で動くたびに、いつもそれとは無関係な立ち位置から、まるで他人事のようにそれを眺めている織部の姿を、佐竹は知っている。織部がどうしていつもそうなのか知らない。表面は熱くて楽しくても本質は低温で何にも本気にならずに、適当にやり過ごしているのが織部で、たぶん間違いはなかった。それが佐竹の知っている織部だった。 「お前がそんなに本気なのも珍しいな」 「本気?なにが」 「アマさんだろ、西利ちゃんが言ってた」 「・・・べらべらと」 言いながら織部は俯いたままで口角を上げた。その顔には少し見覚えがあって、佐竹はほっとした。 「良かったな、お前ずっと前からアマさん好きだったもんな」 「・・・そうだっけ?」 「そうだろ、俺と徳井は柴さん派なのに、お前はずっとアマさん派だったじゃん。念願かなって構ってもらってるんだろ」 「・・・」 「だからって西利ちゃんにあんなこと言う必要ないと思うけどなぁ、西利ちゃんの好きとお前の好きは別物だろ」 「・・・―――」 言いながら佐竹がベンチにもたれると、背もたれがぎしりと音を立てた。相変わらず織部は少しだけ俯いていて、しばらく何も言わなかった。外は寒くて、きっとコートを着ていても寒くて、なのに織部はここで鞄を持って一体何をしているのだろうと、佐竹はその段になってふと思った。吸わないタバコのケースが歪むほど強く握って、ここで一体何をしているのだろう。 「・・・―――」 佐竹が沈黙を埋めるみたいに、唇を開いたのと、織部が何かを言いかけたのが多分同時だった。織部の言葉を待って佐竹が言葉を切った次の瞬間、背中でがちゃりと扉を開ける音がした。反射的に振り返る佐竹の隣で、織部はその正体を知っているみたいに悠長に頭を上げた。 「悪い、今終わった」 「・・・アマさん?」 黒いコートを着た天海が、喫煙所に入ってくると同時に誰がそこにいるのか知っているみたいにそう口走った横顔に、佐竹の疑問形が当たって弾ける。天海の温度のない表情が、少しだけ動いてやがて止まる。ぎしりと座っていたベンチが音を立てて、ゆらりと隣の熱が立ち上がった。はっとして佐竹も遅れて立ち上がる。その目の前をやけに緩慢な動作で織部が大股で過ぎていく。 「いえ、俺もさっき終わったところです」 さっきの不機嫌そうな顔をにっこりさせて、織部は手に持っていた歪んだピースの箱を天海に差し出した。天海はそれを見てからひったくるように受け取ると、すっと織部から視線をそらして、まだベンチの前でぼんやり立っている佐竹のことをちらりと見た。 「帰りましょ、天海さん」 「・・・あぁ」 けれど天海は最後まで佐竹には何も言わなかった。織部もさっきまで喋っていた佐竹のことなんて見えなくなったみたいに、天海の背中を押して喫煙所からふたりとも出て行ってしまった。ふたりともがすっかりいなくなってしまってもまだ、佐竹はそこでぼんやりと立っていた。 (・・・嘘だ、織部はここで、ずっと待ってた) そしてぼんやりと笑った彼の鼻が冷やされて随分赤くなっていたことを、まるで自分のことのように思った。 「さっきの」 織部が握りしめていたせいで歪んだピースのボックスからタバコを取り出して火をつけると、天海は暗がりに目を細めた。助手席で大人しくシートベルトを締めていた織部がふっと顔を上げる。天海の視線はこちらになかったが、彼が誰に話しかけているかを推測するのは容易い。ここにはふたりしかいないからだ。 「なに、タケ?」 「・・・そんな名前だったか、誰の班の奴だ」 「堂嶋班だけど。なにそれ、そんなこと天海さん気にするの」 「・・・―――」 ちらりと天海がこちらを見る。相変わらず無表情だったけれど、怪訝そうな顔をしているのは分かった。それに幾らか明るく振舞っても無意味なことが分かっていたから、織部は何も言わなかった。何も言わずに口角だけをわずかに引き上げる。 「俺は何も言ってないよ、口が滑りそうになったけど」 「お前は体裁というものを理解してない」 「天海さんがそんなもの気にするなんて思わなかった。矢野さんはいいのにタケはダメなのかよ」 「・・・今矢野は関係ないだろ」 なんとなく自分でも矛盾していることを理解しているみたいに、天海は小さくタバコの煙を吐き出した。それが空中に溶けていくのを、何となく目で追いかける。本当は天海の班の須賀原も天海と自分の関係を知っていたけれど、それを口に出すのはやめておこうと織部は思って、その事実を飲み込んで知らないふりをする。そうやって自分の信頼している矢野には何でも晒しても大丈夫と思える自信が、たぶん過不足ない自信が天海にはあるのだと思わされて、何度でもそれに自分は嫉妬するだろうと織部は思った、醜くても。 「バラしちゃおうよ、天海さん」 「・・・正気か」 「俺は本気でそれでもいいと思ってる。別に他の奴がなんて言おうがどうでもいいじゃん。それにアンタも今更キャリアがとかいう立場でもないだろ」 「・・・―――」 天海は何かを言いかけて、逡巡するみたいに口を閉じた。織部はそれを目の端で追いかける。 「そしたら天海さんに変にちょっかいかけるやつもいなくなるしさ、俺も心配しなくていい」 「ちょっかい?・・・何の話だ」 「はは、知らなくていいよ、天海さんは」 「オイ・・・―――」 締めたはずのシートベルトを外して、運転席に座る天海に顔を寄せる。天海の唇には火のついたタバコがまだくわえられていた。天海に頼まれたことは一度もないが、たまに残業する天海を待っている間、織部は事務所のすぐ近くのコンビニでピースのボックスをひとつだけ買う。もうそのコンビニのピースの番号まで覚えてしまったくらいだ。天海にそれを渡して機嫌取りをしているのかもしれないし、理由は他にあったのかもしれない。けれど今日ばかりは自分で渡したそれが邪魔だった。邪魔だと織部が思っていたら、天海がすっと唇からタバコを抜き取った。たぶんそれが合図で、間違いはなかった。 「・・・はは、口の中、苦い」 「織部、馬鹿なことを考えるのはやめろ」 「だから俺は本気だって」 「俺のキャリアはもう頭打ちかもしれないが、お前はこれからだ。見誤るな」 真顔で天海がそんなことをいうものだから、織部はきょとんとしてしばらく天海が言っていることの意味が分からなかった。 「何言ってんの、天海さん」 「・・・何って・・・」 珍しく天海は織部がどうしてそんな風に言っているのかよく分かっていないのか、言いながらふっと目を泳がせて織部から顔を背けた。 「俺がキャリアなんて望んでると思ってんの、そんなことどうでもいいって。適度に仕事して適度にお金もらえたらいいんだよ。あんな柴さんみたいに擦り切れるほど仕事ばっかしたくねーよ」 「・・・それはお前がまだ若いからだ」 顔を背けたまま天海は静かに呟いた。さっき自分で抜いたピースは指先で短くなっている。その後頭部を見ながら、織部は溜め息を吐きたかった。もしかしたら天海のキャリアが頭打ちだといったのを、このひとは怒っているのかもしれないとふと思う。そういうことに天海は兎角厳しかったし、別の班で一緒に仕事をする機会にまだ恵まれていなかったけれど、どこからか織部の適当な仕事ぶりを聞きつけては、眉を顰めるくらいのことは簡単にした。ふたりでいるのに仕事の話をされたくないから、織部は何となくはぐらかしているつもりだったが、それでも時々天海がその話をしたがっていることに気づいてしまう。自分より後輩だったはずの男に追い抜かれて、それで胸を焼かれて単純な判断すら誤らせるくらいのことを、天海はしているから多分、同じ轍を踏んでほしくない気持ちがあるのだろう。それは本当に恋人に向ける気持ちなのだろうか。 (だったら余計にあんな乳デカ女に天海さんを渡してやる義理なんてない) 「俺くらいの年齢になってから、後悔したって遅いんだ。今からしっかりやっとけ、将来のためだ」 (嫉妬とか執着とか今まで誰かにそういうこと思ったことないから、どうやったらいいのかよく分かんないな) 「聞いてるのか、織部」 眉を顰めた天海がこちらに顔を向けて、織部はそれににっこり笑って頷いたけれど、天海が何を話していたのか、大方見当はつくものの、本当は聞いていなかった。天海にはそれがばれているのだろう、余計に渋い顔をされて、もう織部にそれを諭すのは諦めたのか、前を向いて黙ったままシーマにエンジンをかけた。車の振動が下から伝わってくる。それでもまだ、織部は天海の横顔を懲りずに眺めていた。 (将来のことなんてどうでもいい、今隣に天海さんがいることが重要なのに) (そんなこと言っても天海さん、アンタだってそれを理解するつもりはないくせに) 考えながら織部は窓の外に目を向けた。東京の沈んだ夜が、じっと奥まで溶けている。

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