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嘘吐き夜を目指す Ⅰ
その日は朝から最悪な気分だった。
『ごめん、俺付き合っている人がいるから』
同期の鹿野目は同じ波多野班に配属されたこともあって、入社当時からよく話していたほうだと思う。お洒落なのか何なのか西利には分からないツーブロックの社会人らしくない髪型に、元来彼が持っているらしい鋭い目つきも相俟って第一印象は最悪だったが、話してみると存外普通の優しいひとであることが分かるのに、そんなに時間はかからなかった。多分ひとより少しだけ整った容姿とか大きい胸のことを、セクハラまがいの言葉でからかわれるように言われることが、ほとんど西利の常ではあったが、鹿野目だけはまるでそんなことに興味がないみたいに、フラットに話をしてくれるのが西利にとっては新鮮だった。好意を自覚するのに、そんなに時間はかからなかったけれど、玉砕するのにもそんなに時間はかからなかった。誘えば、鹿野目は一度デートをしてくれはしたものの、結局そういう風にふられてしまい、事務所に帰っていく鹿野目の背中を見ながら、何となく自分はこの顛末は読めていたような気がすると、西利は自分を慰めるみたいに思ったのが、午前中のことだった。
「なんか私、働き出してからモテなくなってる気がする・・・」
「は?何言ってんの、西利」
午後、明るい光を放つPCを目の前に、溜め息を吐くばかりで仕事の捗らない自分の隣で、藤本はそう辛辣に言いながら眉を顰めた。大学の時はミスコンで準優勝を取ったりして、彼氏に困ることはなかったどころか、色んな男の子に声をかけられていたのだが、今思えばあれが人生のピークだったような気がすると、また大きい溜め息を吐きながら西利は思った。デスクの上に必要ないのに鎮座している化粧ポーチの中からコンパクトを取り出すと、それを開いて鏡で自分の顔を見てみた。今日も今日とて自惚れ半分かわいい自分の顔が映っているが、いかんせん表情は優れない。別段大学の時から変わったつもりはなかったけれど、もしかしたら仕事が忙しすぎて老け込んでいるのかもしれないなんて考えてしまう。
「志麻さん・・・わたしちゃんとかわいいでしょうか・・・?」
「知らん、仕事して」
藤本は眉を顰めたまま、落ち込む西利に向かって書類の束を突き付けた。コピーを取って来いということなのか、それにしても藤本は優しくない。こんな時くらい慰めてくれたらいいのにと思ったけれど、疲れたような藤本の横顔を見ていると、そんな甘えたことが言えない現実がここにはあることを、西利は嫌でも理解させられる。何年か楽しく仕事をしたら、さっさと高収入のイケメンを捕まえて寿退社する予定だったのに、人生は何があるか分からない、考えながら西利は重い腰を上げた。
藤本に無言で頼まれたコピーの束を持って、西利はまだ溜め息を吐きながら、事務所の廊下を歩いていた。今日に限ってなんだかパンプスがきつくて、踵がずっと痛かった。いつも履いているパンプスなのに、なんでこんな日に痛くなるのか分からなくて、自分の不運を呪いたくなる。
(だいたい高収入のイケメンってどこにいるの・・・?あー、もう手近なとこに手をつけようとしたのがいけなかったのかな)
(合コンとかしたほうがいいのかなぁ、でも誰に頼もう・・・)
もう一度、大きな溜め息を吐いた時だった。
「西利!」
不意に後ろから自分を呼ぶ声がして、何も考えずに振り返った。思ったより声の主が近くにいて、西利はびっくりして後ろ向きに後退する。
「西利、これ・・・―――」
「あ」
後ろから自分を追いかけてきたのは、B班のリーダーである天海だった。自分の目線にさっき藤本に頼まれてコピーをとった原本らしき書類が紛れ込んでくる、と同時にそれがぐらりと歪んだ。口から間抜けに声が出る。多分、カーペットの僅かな段差に、その時天海の革靴が引っ掛かったのだろう。自分のパンプスが急にきつくなるみたいに、そういう不運もあるものだ。それ以後のことは、西利にはスローモーションみたいに見えた。更に後退した自分の背中が壁に当たる感覚がした後、躓いた天海が反射的に伸ばした手が、自分が背にした壁に丁度ぶつかって止まる。はっとして見上げると、近距離で天海と目が合った。
「・・・悪い、これ」
「・・・あ、・・・りがとう、ございます・・・」
何でもなかったかのように、天海は手に持っていた書類を西利に渡すと、すっと手をどけて、自分はまだコピー機にでも用があったのか、後ろを向いてそのまますたすたと来た道を戻っていった。西利は呆然としながら、渡された書類を大事に胸に抱えてその天海の後姿を見ていた。
(・・・高収入のイケメン・・・!)
「志麻さんコピー取ってきました」
「あー、ありがとう・・・あれ、なんでこれこんなよれてんの?」
藤本が言いながらすっと目線を上げると、そこにはさっきまで大きな溜め息を吐いていた西利が、にこにこ顔で立っていて、なんだかすごく嫌な予感がした。
「志麻さん聞いてください!」
「・・・あー・・・聞きたくない・・・」
「さっき!さっきそこで私、アマさんに壁ドンされちゃって!」
「壁ドン?アマさん?」
「今まで接点なかったからあんまりよく知らなかったんですけど!アマさんってすっごいイケメンですよね!」
「イケメン・・・?いやまぁ、顔は綺麗と思うけど・・・アンタまさか・・・」
頬を上気させて興奮して話す西利を見ながら、背筋に薄ら寒いものを感じて、藤本は仕事をしろと注意をするのを忘れて、西利からすっと視線を反らした。するとやっと西利が思い出したみたいに、自分の席に座って、さっきと同じように化粧ポーチからコンパクトを取り出して、前髪を弄っている。それを見て藤本はさっきまで溜め息ばかり吐かれて鬱陶しいと思っていたが、こっちのテンションもこっちのテンションでなかなかに鬱陶しいと思わざるを得なかった。しかし鹿野目の次が、また天海とは。自分とはそういう色恋ごとに関するレーダーがそもそも違うのだろうなと思って藤本は考えることを放棄した。
「あー、もう。今日なんでこんな服なんだろ!もっとかわいい服着てくればよかった!」
「・・・アンタ職場を何だと思ってんの、っていうか鹿野がダメならアマさんって・・・流石に切り替え早すぎなんじゃ・・・」
「だって彼女いる人相手に頑張ったって意味ないじゃないですかぁ、それなら次いったほうが早いです!」
ぐっと親指を立てられて、藤本は気疲れで頭がくらくらするかと思った。西利が小柄でかわいらしい見た目とは対照的に、こんなに肉食系なのだとは知らなかったと思いながら、藤本が今度は西利の代わりに溜め息を吐く羽目になる。黙っていても男が寄ってきそうな容姿を折角しているのに、鹿野目の時にも思ったけれど、天海にしてみても、どうしてそう無理そうなところばかり攻めるのだろう。それならば自分にあからさまな好意を寄せている男を引っかけたほうが、西利の場合はそういう男も身の回りにいるのだから、西利の持論ではないけれど、ずっと早いのではないかと思いながら、ふっと首を回してB班の様子を藤本は遠目から伺った。天海はそこのリーダー席に背筋を伸ばして座っている。鹿野目もなかなかに表情の変わりにくい変人であったというのが、藤本の見解なのだが、天海に至っては西利が接点がないと言ったみたいに、確かに藤本も入社してからしっかり天海と喋ったことすらないので、余計によく分からないひとであった。
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