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嘘吐き夜を目指す Ⅱ
藤本はキーボードを打つ手を止めて、隣で鏡を覗き込んでいる西利に視線をやった。A班のリーダーである波多野は柴田のように厳しくなく、いつも優しく穏やかな人であったから、例え西利が就業時間に何をしていても、表だって注意をするようなタイプではなかったから、だから若手がこんな風に育ってしまったのかもしれないと、藤本は思いながらその西利を注意すべきかどうか考えていた。先輩である藤本のとがめるような視線に気づかないまま、西利は手鏡の中の前髪を熱心に直している。こんな調子では、来年は育成方針の転換を今から視野に入れることを考えざるを得なかった。
「アンタねぇ・・・ってか、アマさんって矢野さんと不倫してるんじゃなかったっけ?」
「え?やっぱそれってマジなんですか?」
急に声を潜めて西利が言う。天海がリーダーを務めるB班には、矢野という天海の右腕と囁かれる優秀な所員がいる。無口で不愛想な天海が、その矢野だけには絶大な信頼を寄せていて、それこそふたりで飲みに行くこともしょっちゅうあるらしい。藤本には天海が飲みの席で軽快にトークをしているのをとても思い浮かべることはできなかったが。矢野は既婚者であったから、いつしかあの二人は不倫をしているのではないか、なんて事務所の中では嘘か本当か分からないような、けれど妙に真実味のある噂が横行している。藤本は別に誰と誰が付き合っていようが不倫をしてようが、自分にさえ関係がなければいいと思っているので、それを聞いてふたりとも真面目そうに見えるのに、やっぱりそこは男と女なんだなと思ったくらいだった。
「いや別に、知らないけど」
「噂ですよねー?ただの。アマさんフリーなのかな?聞いてみようかな」
何となくそんなことを言うべきではなかったと思いながら、藤本はPCに目を戻した。矢野のことも天海のこともよく知らないのに、そんな悪意で満ちた噂話の片棒を担いでいるみたいで、そんな話しかできない自分のことを嫌いになりそうだった。
「やめときなって、ほんと。アマさんなんて鹿野以上に何考えてるか分かんないし・・・」
「志麻さんってなんでそんなに保守的なんですかぁ!私は絶対高収入イケメンと結婚するんです!」
だから一応西利のことはかわいい後輩だと思っているし、それなりに心配もしているつもりだったが、はっきり言ってしまえば自分に害がなければどうでもいいと、その時藤本はやけに張り切る西利を見ながら溜め息を吐いて、自分でも薄情なことと思いながら、そう考えてしまった。
「好きにすれば」
その日はスケジュール通りに会議が終わって、天海は少しほっとしていた。管理職になって責任も仕事の重みも増えたけれど、天海は中でも一番時間の読みにくい会議が苦手で、たまに有益でないのにだらだら長引く会議に出席しなければならないとなると、その日一日イライラしていることがある。自分の頭の中で今日の仕事と手持ちの仕事の流れとさらに班員の状況を詰め込んでいるのに、そんな風に自分を無意味に拘束する会議に、管理職になって出席しなければならないことも増えていることは、天海の頭痛の種のひとつだった。会議室から解き放たれると、周りの職員はめいめいまだ何かを喋っていたが、それは無益と切り捨てて、天海はまっすぐに自席に戻った。デスクの上には、会議に入る前にはなかった未処理の決裁が増えている。
「アマさん」
それのひとつを手に取った時だった。ふっとそんな風に自分を呼ぶ声が近くから聞こえて、天海はすっと座ったまま視線を上げた。てっきり班員の誰かだと思ったが、そこに立っていたのは波多野班の西利だった。状況がよく分からなくて、天海は一瞬思考が止まる。自身のコミュニケーション力の問題なのは分かっているのだが、必要以上に話をしない天海は、別に柴田みたいに声を上げて怒ったことなど一度もないはずなのに、なぜか所員には右から左に怖いと恐れられていて、なんとなくそれは居心地が悪かったし、自分でももう少しフランクに接することができればと思っているのだが、思っているだけでそれは今のところは実行されていない。そうして所員に恐れられている天海にそんな風に話しかけに来るのは、他の管理職かそれか班員にほぼ限られている。しかしその時、天海のデスクの前に立っていたのは班員でも管理職でもない、西利だった。
「・・・なに」
数秒止まって、一体何が起きているのか推測しようと思ったけれど、西利がわざわざデスクまで話しかけに来る用件を、天海は自分が思い出せないことを分かっていた。喉をついて出た声は、余りにも素っ気なくて、天海は西利に申し訳ないと瞬時に思ったが、もうどうしようもない。
「あの、アマさん、この間、コピーの、ありがとうございました」
「・・・コピーの?」
「あの、追いかけて、渡してくれたじゃないですか、志麻さんに怒られちゃうところでした。助かりました」
「・・・あぁ」
そういえばそんなことがあったような気がすると、必要のないことは覚えておかない天海の脳みそは、それを消去してしまったらしく、はっきりとした覚えはなかったけれど、天海はそのことよりも、自分の不愛想をあまり西利がどうとも思っていないことのほうに、気がとられていた。
「あ、あの、それで、えっと」
「・・・なに」
「すいません、あの、私そういえば、アマさんとあんまりお話したことないなぁと思って・・・よ、よかったら今度ごはん行きませんか・・・!」
「え?」
白い頬を赤く染めて、急に何を言い出すかと思えば、西利はそこで天海が想像していたこととは全く違うことを言い出して、天海はまた推測で先回りできなくて混乱した。普段から怖いと恐れられ、敬遠されている自分にこんなことを言いに来るなんて、新手の罰ゲームなのではないかと一瞬考えが飛躍する。しかしこちらをきらきらの目で見つめる西利は、決して冗談を言っている風ではないし、多分そんな風に天海にわざわざ冗談を言いに来る所員はここにはいないだろう。
「・・・西利」
天海がそれに口を開いて返事をする前に、近くでそう彼女を呼ぶ声がして、天海の目の前で西利の茶色のボブがさっと形を変えた。天海も思わず声のしたほうを見る。天海の斜め前に据えられた席に座って、さっきまで黙って仕事をしていたはずの矢野が、こちらを見てにっこりと笑っていた。
「や、やのさん・・・」
「西利、今まだ就業時間だけど、分かってる?雑談なら休憩時間にして。悪いけどうちのリーダーはあなたのくだらない話に付き合うほど暇じゃないの」
「・・・す、すいませ・・・ん」
「矢野」
目の前で見て分かるくらいにさっきまで上気していた頬を青白くして、西利が俯くのを流石に可哀想に思って、天海はどうしたらいいのかよく分からなかったが、とりあえず矢野の名前を呼んで、それ以上正論を言うなと、諭すつもりだった。矢野は簡単に天海のその一言だけで暗に言いたいことを汲んで、一瞬口を閉じて少しだけ面白くなさそうな顔をした。
「アマさんは黙っていてください」
「・・・悪い」
やけにはっきり矢野がそう言うので、天海はその静かなる剣幕に押されて、西利を擁護したかったけれど、また口を閉じる羽目になった。
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