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嘘吐き夜を目指す Ⅲ
「西利、いつまでそこに立ってるの?早く席に戻って仕事しなさい」
「す、すいませんでした・・・失礼します」
すっかり青くなってしまった西利はにっこり笑ったままそう言う矢野を見て、ひどく慌てた様子で、早口でまくし立てるようにそう言うと、天海のことを一度も振り返らないまま、すたすたと早足で自席へと戻っていった。その背中を見ながら、矢野は胸中でざまあみろとガッツポーズを作った。少しくらい強引でないと、大事なものを守ることができないことを、矢野は知っている。
「矢野さん今のは流石に大人気ないんじゃないすか・・・、西利が可哀想ですよ」
そんなことを矢野が考えているのが漏れているのか、隣の席で今まで黙って仕事をしていたはずの須賀原が、小声で西利を擁護してくる。
「なにすがちゃん、私じゃなくてあのおっぱい女の肩持つわけ?ほんとに男はおっぱい好きね!」
「ちが・・・!今おっぱい関係ないでしょう!」
矢野もそれに小声でやり返すと、須賀原は顔を赤くしてそう小声で反論してくる。
「なにふたりでこそこそ喋ってるんだ」
少し離れた場所にある天海の席までその声は届かなかったようで、勿論届かないボリュームを選んだつもりだったのだが、考えながら矢野はまたぱっと笑顔を作って、天海のほうを振り返った。その後ろで須賀原はげんなりした顔をしている。
「アマさんには内緒でーす」
「・・・あ、そう」
天海は少しだけ残念そうにそう呟いて、須賀原はそれを見ながら、異動の辞令が出たときはどうしようかと思っていたけれど、なんとなくB班も居心地がよくなってきたなとふと思った。
やはり働き出してから確実にモテなくなっている気がすると、トイレの鏡に映った自分の顔を見ながら、西利は今日何度目かの溜め息を吐いた。矢野に追い払われてからというものの、天海が一人でいる時間を狙って話しかけに行こうと思うのだが、タイミングがなかなか合わず、しかも天海はほとんど定時みたいな時刻に仕事を切り上げ、さっさと帰ってしまうので、話をするどころか、捕まえることにすら苦戦を強いられている。更に悪いことに、この時期になぜか忘年会の幹事なんていう面倒くさい仕事が回ってきて、それだけならまだ良かったけれど、幹事で一緒になった織部という男になぜか「天海さんにちょっかいを出すな」と大声で恫喝されたのが、この間のことでまだ記憶に新しい。西利にはよく分からないが、どうも矢野もそして織部も、天海にそうして悪い虫がつかないように、まるで思春期の女の子の父親みたいに、目を光らせているのだ。
(そういやアマさんあんなに美人なのに、女の子とどうこうって言うの全然聞かないな)
(矢野さんがいるからかと思ったけど、違うのかな)
彼女がいるという話も聞いたことがない。鹿野目みたいに知らないだけかもしれないけれど、考えながら西利はリップを綺麗に塗り直した。鹿野目以上に天海の情報は誰に聞いてもあんまり有益なものがなくて、誰も西利の役に立ってくれそうもなく、あの壁ドン事件以降、天海とはろくに喋ることもできていない。珍しくどうしていいのか分からないパターンだと思いながら、西利は顔色の悪い鏡の中の自分にはぁとひとつ溜め息を吐いた。そして化粧ポーチとハンカチを持ってトイレを脱出する。
(あー、もう八方塞がりだなぁ、諦めるしかないパターンなのかなー・・・)
ぼんやりそんな風にらしくなくネガティブなことを考えながら歩いていると、目の前の会議室の扉が開いて、そこから不意に天海が出てきた。天海のことを丁度考えていたところだったので、びっくりして西利はそこに立ち止まる。するとまるでその動きを追うように、天海の視線がすっと動いて、西利にぶつかってそこで止まった。天海が開けた会議室の扉からは、管理職がぞろぞろと出てきて、皆何か深刻そうな顔をしながら、手元の資料を見て喋っている。彼らは西利がいる方向とは逆方向の廊下に向かって歩き出したので、西利はほっとしながら、天海に分かるようにそっと会釈をした。すると天海は黙ったまま、すたすたとまだそこに立ち尽くしたままの西利の前までやってきて、そこでぴたりと止まった。
「・・・西利」
「え、あ、は、はい・・・?」
「お前、この間ごはんがどうとか言っていたけど」
「あ・・・あ、すいません、あの」
西利はぽかんと急に近距離に迫る天海の整った容姿をぼんやりと見つめていたが、これは怒られるパターンだと、はっとして見惚れている場合ではないと、下唇を噛んで俯いた。その件は矢野にも散々怒られたので、もう掘り返してほしくはなかったけれど、そういえば天海本人からは何も言われていなかったことを、廊下のタイルを目で追いながら西利は思い出していた。
「お前、何か食べたいものがあるのか」
「・・・え?」
しかし、天海がその時言い出したことは、西利の予想の斜め上をいっていた。びっくりしてかわいくない声が出たと思いながら、西利が怒られると思って下げていた視線をすっと上げると、天海は相変わらず近くに立っていて、どう考えてもその時他でもない自分に話しかけているように、西利には思えた。証拠に周りには西利以外の人間はいなかった。天海のその表情は、いつもみたいに全く感情が読み取れなくて、天海が何を考えているのか分からなくて混乱する。冗談で天海がそういう話を自分に持ち掛けてきているわけではないのだけは、西利にはなぜかはっきりと分かった。天海の人間性のことなんてほとんど知らなかったけれど、そういう無駄なことをする人ではないことは、少し観察していれば分かることだった。
「あ、アマさん・・・もしかして私と・・・」
「なに」
「ご、はん、行ってくださるん、ですか・・・?」
答える声に全く色がなくて、仕事の話をしているみたいだと思いながらも、期待して心臓がばくばくいっているのが耳の側で聞こえた。その音が大きすぎて側にいる天海に聞こえてしまうのではないかと、思いながらもその先の展開に期待しないほうが無理だった。
「別にいいよ、俺なんかと食事したって面白くないだろうけど」
「・・・―――」
もしかして夢なのかなと、西利は目をぱちぱちと瞬かせながら思った。あまりにもその時、天海が言ったそれが自分にとって都合のいい話でしかなかったので、西利には俄かにそれが信じられなくて、また簡単に言葉を失ってぼんやりと天海の整った鼻筋を見ていた。あまりにも最近不運が続きすぎて、病んでいるから、デスクに座ったまま居眠りをしていて、その間に都合のいい夢でも見ているのかなと、天海の目がなければ、頬のひとつでも引っ張っていたかもしれない。
「ちょっと俺、今週は予定が詰まってるから・・・あー、来週なら何とか」
「あ、わたし、全然いつでも・・・大丈夫、です」
「そうか、悪いな。合わせてもらって。食べられないものとかある?」
「な・・・ない・・・です。か、らいものは苦手・・・ですけど・・・」
また声が可愛くなく震えるのを、西利は自分の意思では止められそうもない、と思った。
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