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嘘吐き夜を目指す Ⅳ
今までの上手くいかなさが嘘みたいに、とんとん拍子に話は進んでいるが、天海の後ろから急に矢野が出てきて、また怒られるのではないのかと、西利は現実をうまく処理できないままに、逃避した考えに逃げ込もうとする自分のことを抑えられない。それにしてもどうして、天海は自分にそんな風に声をかけてくれたのだろう、もしかして少しは望みがあるのかもしれないと、西利はさっきまで下向きだった気持ちが、ふっと上を向くのが分かった。働き出してからモテなくなったとさっきまで考えていたところだったけれど、これでも大学時代は美人で通っていて、女子の憧れの先輩を捕まえては、腕を組んでこれ見よがしに校内を闊歩したものである。天海の好みがリサーチの中でまったく浮上してこないので、自分はそもそもストライクゾーンではないのかもしれないとか考えていたことは、いつの間にかすっかり忘れていた。
「分かった。行きたいところある?ないなら俺が適当に予約しておくけど」
「・・・お、まかせしていいでしょうか・・・」
「じゃあ、決まったらメールする」
ふっと天海が動いて、西利は話が終わったのだと思った。天海の半身に声をかけて、何でもいいからもう少し話をしていたかった。天海の低い、色はないけれど別に冷たいわけではないその声を、もっと聞いていたいと思った。けれど西利には天海の足を止める材料が何もない。
「あ、あの、アマさん!」
けれど西利はその時、天海の背中にほとんど叫ぶみたいにそう呼び掛けていた。ふっと天海が振り返って、あたりに色が満ちる。好きな人がいる景色はどうしてこんなにきれいなのだろうと、西利は考えながら、またぼんやりしてしまいそうになった。
「なに」
「あ、あの・・・た、のしみにしてます・・・」
言いながら失敗したと思った。何かもっと気の利いたことが言えればよかったのだろうけれど、西利は上手く頭で考えることができなくて、考えるよりずっと早く、月並みな言葉は口から洩れていた。天海はさっきよりも少し西利から離れたところに立っていて、じっとこちらを何かを観察するみたいに見ていた。
「俺も」
けれど、そうして短く天海がそう言ったそれに、飛び上がるほど嬉しかったなんてどうしようもない。
西利は天海の個人的なアドレスは知らなかったし、多分天海もそのはずだった。一体連絡はどうやって取るのかと、別れてから焦ったけれど、後日、社内メールが天海から届いた時に、この手があったかと、西利は一人パソコンの前で腕組みをしながら思った。メールの内容は簡素なもので、日時と店の詳細が載っているだけだった。その素っ気なさが天海らしいと頬を赤らめて、即刻保存したのが先週のことだった。それからは寝る間も惜しんでネットでかわいい服を検索しまくり、エステに通い、美容院に行きと、その日に向けてメンテをする日々が続いた。残業をしない天海がその日いつも通りの時刻にさっさと帰っていくのをしっかりと目で追いかけた後、仕事は山ほど残っていたが、西利は私物を鞄に詰め込み、リーダーの波多野に見つからないように、そっと事務所を抜け出した。エレベーターの鏡で最終チェックをした後、いつもは1階のボタンを押すのに、今日ばかりはB1のボタンを押した手が照れている。そしてチンと高い音を立ててエレベーターの扉が開くと、そのすぐそばに天海が立っていて、西利は心臓が止まるかと思うほどびっくりした。
「よぉ、はやかったな」
「あ・・・お、お待たせしました・・・!」
急いできたのがばれたかもしれないと、熱い頭で考える。天海は伏し目がちになって、銜えていたピースを指で抜くと、ふうと上に向かって煙を吐き出した。そういえば天海は喫煙者だったと、かき集めたわずかなデータと頭の中で照合させながら、西利はほとんど自動的にぼんやり思う。
「悪い、これ一本だけ吸わせて」
「・・・あ、どうぞ、お、かまいなく・・・」
基本的に西利は煙草の何がいいのかよく分からなくて、匂いも臭くて嫌だったけれど、その時天海が伏し目がちにそう言うのに、見惚れてぼんやりしながらそう返事をして、もうずっとここで天海がタバコを吸っているのを眺めていたいとさえ思った。そうして天海が携帯灰皿に短くなったピースを突っ込むのを見ながら、天海とふたりで食事に行くなんて夢みたいな話だと思っていたけれど、それはどうやら現実で、今夜この後決行されるらしいということが、段々と現実味を帯びてきた。
「じゃあ、行こうか。車こっちだから」
「あ、はい・・・」
天海が歩き出すのに返事をして、西利は小さく息を吸い込んだ。心臓がばくばくとまた煩くなっている。これが現実なんだと思うと余計に緊張してきて、天海の後頭部を見ているだけで目が回って倒れそうだと思う。よしと小さく呟いて、西利は天海の後姿を追いかけた。
「あっれぇ、天海さんぐ・う・ぜ・んですねぇ!」
しかし、そんな甘い気分でいられたのは、ふたりで車を降りるまでだった。丁度店に入ろうとした時に、後ろからそう浮ついた調子で声をかけられて、正確には声を掛けられていたのは天海だが、なんとなく一緒に西利も振り返って、声の主を確認してから、西利はげっと口から声が漏れそうになった。ともすれば、声でない他の何かが漏れていたかもしれない。
「織部・・・とスガ」
西利が顔を真っ青にしているのに、天海はまるで何でもないことのように、声をかけてきた織部と、そしてその後ろに俯いて立つ、天海の班の須賀原の名前を呼んだ。そこで西利は改めてはっとして、何がおかしいのかにやにや笑っている織部から少し視線をずらした。織部には「天海さんにちょっかいを出すな」と恫喝された記憶が新しく、その一件以降織部のことは、何でもいいからとにかく関わりたくない先輩というカテゴリーに分類されていて、おそらく織部がそこから出てくることは、しばらくないだろう。本当のことを言えば、織部も見た目はまぁまぁ男前だったし、素性を知らない頃はちょっといいなと思っていた時期が、西利にもあったのだが、そんなことはもう記憶の底に沈んでいる。そして織部の後ろに立つ須賀原は、今でこそ天海の班にいるが、その前は波多野班で西利と一緒に働いていた。須賀原は自分にあんまり自信がないようで、猫背で俯いて話す癖がある。西利は害のない先輩くらいにしか須賀原のことを認識していなかったが、そういえば矢野に追い払われた時も側にいたのに、全く助けてくれなかったことを、この段になって思い出していた。
「天海さん西利とごはんですかぁ、俺たちもこれから飯食おうと思っててぇ、ほんとぐーぜんですね!」
「・・・ぐうぜん・・・?」
あからさまなそれに西利は小さく呟いたが、前に立つ天海には聞こえていないようだった。
「そうだな、お前らも一緒に食うか」
「わーい、ありがとうございますぅ、すがちゃん行こうぜ、天海さんがおごってくれるってさぁ」
「・・・あ、ああ、うん・・・」
青い顔をして相槌を打つ須賀原の腕を、西利は思わず掴んだ。天海はさっさと店に入っていって、予約の確認なんかをしており、織部はにやにやしながらそれにくっついていった。須賀原は何か後ろめたいことがあるのか、西利と目を合わそうとせずに、ふわふわと黒縁眼鏡の奥の瞳を宙にさ迷わせた。
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