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嘘吐き夜を目指す Ⅶ
鏡の中の自分は、今日も今日とて同じ顔をしている。昔からお酒には強くて、どんな種類を幾ら飲んでも酔うことができなかった。年を取ったら少しは弱くなるものかなと思っていたけれど、この年までその体質が変化することはなかった。弱くないだけでなく、顔が赤くなったりすることもなく、本当に淡々と飲むなぁとよく言われる。天海はお酒が好きであったから、こういう体質で特だったのかもしれない。けれどこういう体質だったからお酒が好きだったのかもしれないし、因果関係は逆だったかもしれない。手を几帳面に洗った後、ポケットからハンカチを取り出して、そういえばタバコが吸いたいなと思った。いつも食事の時には吸っていることが多かったけれど、今日は西利もいたのでなんとなく吸うのはなしかなと、思って今まで吸っていなかった。
「天海さん」
ふっと後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。鏡の中の自分の後ろに、今日はグレーのスーツを着た織部が立っている。天海はそれを目で確認した後、ゆっくりと振り返った。そんなに広くはないトイレの中なのに、入ってきたことに全く気付かなかった。
「織部」
「天海さん、今日楽しい?巨乳の若い女に誘われちゃってこんなとこ連れてくるんだもんなぁ、アンタってほんとすげーよ」
「・・・?」
にこにこ笑ってはいるが、織部の言葉の端々に、何か怒りを感じると天海は思って、それには答えずに黙っていた。そういえば、織部は今日店の前で会った時から、ずっとへらへらしているのに、どこか怒っているみたいだと天海は思っていた。天海は少しだけそのことを思い出した。なんだか自分にはよく分からないが、西利のことが気に入らないようで、天海には分らぬことでずっと喧々言い争っている。そういえば、矢野も西利にはなにか珍しく怒っていたなと天海はぼんやり考えていた。
「なぁ聞いてんの、天海さん」
「・・・聞いてるけど」
「俺怒ってんだけど、分かってる?」
「なんで、何が気に入らないんだ」
何でもない顔で天海がそう呟くので、織部はこれはもう全然ダメだと思った。須賀原にも、ここに来る前に言ったけれど、例えば西利が下心を持って天海を誘っていることも、食事の席であんな話題を振ってきたその理由も、天海は全く分かっていない。天海はまるで自分がそういうことの、若い女の子の恋愛対象であることに無頓着だった。あんなに分かり易く西利が迫っているというのに、天海にはまるでその意味が届いていない。だから自分がなぜ腹を立てているかなんて、天海には分かりっこないのだと思った。
「・・・ほんと、天海さんってそういうとこあるよなぁ・・・」
「何の話だ」
「アンタに悪気とかさ、それこそ浮気してやろうとか、そういう下心ないのは分かってんだけど」
「・・・?」
言いながら、何故かひどく面倒臭そうに溜め息を吐く織部を見ながら、天海はただ首を傾げることしかできなかった。だって本当に、織部がその時何を言おうとしているのか、何が言いたいのか全く分からなかったからだ。それを見ながら織部は一層虚しくなった。
「でも俺という恋人がいるにも拘らず、あんなクソみてぇな女の誘いにほいほい乗っちゃうのはどうなんだろう」
「・・・クソみてぇな・・・?」
「世の中じゃあさぁ、ふたりで食事に行くのは立派な浮気だと思うんですけど?」
「・・・うわき」
まるではじめて聞く言葉みたいに、天海がそれをおうむ返しするのを、織部はイライラしながら聞いていた。本当に一ミリもそんな気がないのは、天海に言われなくても、他の誰に言われなくても、織部が一番分かっている。だからそれを天海にも分かってほしかった。天海にこんな焦燥を理解しろというほうが無理なのかもしれないけれど、織部はそれを諦めることが、やっぱりどうしてもできない。
「ちょっとこっちきて」
「え?」
ぼーっと立っている天海の手を引いて、トイレの個室に連れ込むと、内側から鍵をかけた。個室は二人で入っていると随分狭くて、そして随分暗かった。こんなこと前にもしたことがあったなと、思い出しながら天海の肩を掴んで、そのまま顔を寄せると、天海は思ったより抵抗せずに、その時織部のキスを受け入れた。多分それが天海の中にある、恋人という名前である織部へ捧げる数少ない条件のひとつとでも思っているみたいだと、織部はひとりで虚しくなる。なんでこんなところでキスまでして虚しくなっているのか、織部にはよく分からない。そして多分、天海にそれを尋ねても答えはない。
「・・・どうした」
そんなことこっちが聞きたいと、織部は俯いて思った。
「後ろ向いて天海さん」
これは言葉でいくら説明しても、無理だろうなと織部は思った。天海はいつも通り無表情で、何も分かっていない顔をしたまま、一度織部の言う通り、後ろを向こうとした。しかし中途半端に半身になった後、ふっと首だけを回して、織部のことを見上げた。
「・・・なんで」
「なんでとかいいから。アンタがほいほい女に誘われるままについてきたのが気に入らねぇって言ってんの!」
天海の腰に後ろから手を回して、ベルトを外すと、流石に天海も織部が何をしようとしているのが分かったみたいに、織部の腕の中で体を捻ったが、もう遅かった。もう何もかもが遅かった。本当はここまでするつもりじゃなかったけれど、あんまりにも天海がきょとんとしていて、全く懲りた様子がないから少しそれに苛々している。多分、苛々している自覚はあった。
「オイ、やめ・・・っ」
「ふーん、やめろとか言うんだ、天海さん」
「当たり前、だろ、何やってんだお前・・・」
「いつもいいよいいよって言ってくれるのになぁ」
はははと笑いながら、ベルトを外して、天海のネイビーのスラックスのジッパーを下ろした。天海は織部と会う時はまるでそれが当然と思っているみたいに、セックスをしてくれるし、織部が性的な提案をするのにも別に、嫌そうな顔をすることはあっても、本気で嫌がることはなかった。これは本気で嫌がっているのかなと思いながら、後ろから抱えた天海の頬にキスをした。天海がそういうことを嫌がらないから、一体どこまでが彼の許容範囲なのか、時々確かめてみたくなることがある。
「天海さんが悪いんだよ、あんな女にデレデレしてるから」
「・・・デレデレ・・・?」
本気で天海が分からない声を出したので、織部は思わず笑ってしまいそうになった。分かっているのだ、本当は。天海は何も悪くないし、自分がひとりで苛々して嫉妬もしているということを、織部は分かっていたけれど、今まで誰か他人に執着した感情を持ったことがないので、それをどんな風に昇華させたらいいのか、織部自身もよく分からないでいるのだ。
(だから許してよ、天海さん)
(俺をこんな嫌な奴にしちゃったのは天海さんでしょ)
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