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嘘吐き夜を目指す XI

まるで何事もなかったことのように、織部はひょっこり個室に戻ってくると、テーブルの上の空いているグラスを見て、惨状を把握したのか、へらへらと口元を緩ませていた。 「おりべー、お前なー・・・!」 「ごめんごめん」 「あー、おりべさんー!もう帰ってこなくていいのにー」 須賀原の隣でひとり出来上がってしまった西利が、織部が帰ってきたのを見つけると椅子をがたがたいわせながら、いつの間にかふらふらになってしまった足で立ち上がろうとするので、須賀原は西利の服を引っ張って、おそらく彼女が今日の天海に見てもらうために悩みに悩んだ服を乱暴に引っ張って、立たせないようにするので精一杯だった。その頃になると、隣で話を聞いている須賀原でも、西利が一体なにを言っているのか度々分からなくなるほどには、西利はもう完全にできあがってしまっていた。その原因の一端どころかほとんど全てを担っていそうなことは、知らない振りをして須賀原は自分だけがこの空間で冷静を保っていなければならないのが辛かったから、織部が帰ってきてくれてほっとしていた部分もある。 「悪い、ちょっと天海さん気分悪いみたいだから連れて帰るわ」 「え、ほんと?珍しいな、アマさん酔うほど飲んでないだろ」 須賀原は天海とは何度も班の飲み会で一緒になっているけれど、とにかく天海はお酒の強い人だったので、いくら量を飲んでもいつでも一滴も飲んでいないかのような顔をしていることを知っていた。班の飲み会では誰よりもお酒を飲むくせに、誰よりも素面でいることが不思議だったけれど、それが天海らしいといえば、天海らしかったのかもしれない。そういえば織部の後ろに隠れるみたいに天海が俯いて立っていて、須賀原はその時織部を避けるみたいに上体を反らして天海を見やって、見やってから後悔した。そこで天海は赤い顔をして、織部のジャケットをまるで何かの命綱みたいにぎゅっと握って、見たことがないくらい潤んだ眼をして立っていたからだ。頭の弱い部分がびりびり痺れて、須賀原は一瞬でそれから目を反らした。何だかよく分からなかったけれど、見ないふりをするほうがいいことは、その一瞬で理解できたのでそれで十分だった。なのに、須賀原の隣で西利が須賀原とおんなじようにして、天海のことを見ようとする。 「あー、ほんとだ!アマさん顔赤いー!だいじょぶれすかー?」 「お前、ほんと、座ってろ!」 「ごめんな、すがちゃん。あと頼んでいい?あ、支払い天海さんのカードでしといたから!」 「・・・お・・・おぉ・・・」 爽やかな笑顔で一体何を言っているんだと思いながら、須賀原は眉間に皺を寄せるのをさっきから止められない。止める必要もないのかもしれないが、一体自分がどんな感情になるべきなのか、須賀原には分からないから、織部に何だか面倒くさいことを全部押し付けられているような気がしたけれど、その怒りみたいなものをぶつけてしまうことが正解なのかもよく分からなかった。隣の西利の出来上がりぶりも気になるけれど、織部の後ろで自棄に大人しく、俯いたまま何も言わないでいる天海のことも気にかかる。 「オイ、織部」 「ん?」 小声で織部に耳打ちするみたいにすると、織部はすっと須賀原のほうに片耳だけを寄せた。 「お前、アマさんになんか変なことしたんじゃないだろうな、大丈夫なんだな?」 「あはは、リーダーの心配?矢野さんに似てきたなーすがちゃん」 「茶化すなよ」 「だいじょぶだいじょうぶ、ちょっと気分悪いだけだから、な?」 最後のは多分、後ろでとろんとした目をしている西利に聞かせるつもりで、織部はどこかオーバーアクションでそう言うと、上品なお店の中に似つかわしくない酒臭い自分と西利に対して、いつものようににっこりと爽やかな笑顔を浮かべた。そうしてくるりと背を向けると、俯いて何も言わない天海の肩を自棄に自然に抱いた。なんとなくふたりが上司と部下の関係ではないことを、須賀原は誰に聞かされるわけでもなく、織部がこんな調子なので、すぐに気づいたけれど、なんだかその時、織部がそんなことを天海相手に自然にやることを多分はじめて目の当たりにして、ふたりはやっぱり付き合っているのだと改めて思った。自分にとってはどこか現実感のないそれを、須賀原はその時まざまざと見せつけられたみたいで、見てはいけないものをみてしまったような、なんだか心臓のあたりがひやっと冷えたような気がした。 「あ、そうだすがちゃん」 そのまま個室の扉を開けて出ていきかけた織部は、何かを思い出したみたいに、そこで首だけを回して座っている須賀原を見てにやっと笑った。 「それでいいなら食っちゃえよ、たぶんいける」 そうしてやっぱり爽やかに手を振ると、織部は天海の肩を抱いたまま、今度は振り返ることなく、するりと猫みたいな所作で個室を出て行ってしまった。須賀原は織部のせいで織部が閉めた個室の扉を、ぶるぶる震えながらしばらく眺めている羽目になる。 (あいつ・・・そのつもりで俺を連れてきたのか・・・!) 天海と西利のデートを邪魔したいなら一人で行けばいいだろうとここに来る前、確かに須賀原だってそんな風に抗議をしてみた。自分はそれには無関係だし、無関係でいたかった。それでなくても織部と天海が上司と部下の関係ではないことに、度々頭を悩ませているのだ。これ以上そこに足を突っ込みたくはなかった。けれど織部は爽やかな笑顔で、須賀原の意見を聞き流すと、強引にここまで連れてきたのだ。ついてきてしまった自分も自分だとは思っているが、織部にはどうしても須賀原をここに連れてこなければいけない理由があったのだ。それをこんな風になってから知ることになるなんて、とても予想なんてできない。 (あいつはやっぱりなんて奴なんだ・・・鬼か・・・) 学生の時から悪い意味で有名人だった織部のことは勿論須賀原も知っていたが、同じ事務所に就職して、たまに同じ仕事をして、須賀原が天海班に移ってからは、織部が主に天海の情報を聞き出すために、一緒にご飯を食べることも多くなって、そうやって付き合ってみると織部も案外悪いやつではないのかもしれないと考えていたけれど、やっぱり織部の性根は、学生の頃皆が噂をしていたことと、何ら遜色ないことを、須賀原は再確認していた。考えながら頭の中を冷やすみたいに、冷たいウーロン茶を須賀原は一気に飲み干した。西利の怒りをなだめるために、付き合ってかなりの酒を自分も飲んだような気がするが、全く酔えていないどころか、頭の中は冴え冴えとしていて、須賀原はここで意識でも失っていればまた、自分は楽ができるのにとか、おおよそ現実的ではないことを一人で考えていた。するとその腕が急に引っ張られる。 「すがさん、わたしのビールがぁ、もうないんれすけどー」 「・・・西利」 「なんれすかー?ちょっと、追加たのんでー」 「お前は本当に可哀想な奴だよ・・・」 呂律の怪しい後輩の頭をぽんぽんと撫でると、西利は赤い顔をしてよく分かっていない顔でえへへと笑った。須賀原はそれを見ながら、西利も天海なんかを好きにならなければ、個室に好きでもない男と二人きりで詰め込まれて、べろべろになるまで酔わされるなんて、こんな惨事にはなっていないのに、まったくあの悪魔みたいな男の餌食になってしまって、可哀想だと同情することしかできなかった。自分の責任も少しはあるような気がして、罪悪感に胸を焼かれた結果なのかもしれないが。 「俺が悪い男じゃなくてよかったな、西利」 「えー?男はちょっと悪いほうがかっこいいれすー」 そう言って、西利は赤い顔をしたままえへへと笑った。

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