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第9話
忙しく過ごしているうちに、気付けば二十代も最後の歳となっていた。
ちょうど三十歳になる来年の誕生日当日には、節目として目標だった個展を開催する予定でいる。
色んな国を転々と旅してきたことで数えきれない程の出逢いがあり、その一つ一つが俺を此処まで成長させてくれた。
それゆえにこそ、やってみようと思えたのだ。
場所は地元の小さな画廊が良いと昔から考えていた為、いくつか受けた海外の有名な画廊のオーナーからの誘いは全て断ってしまった。
向日葵の丘から近いあの場所なら、朔も見ていてくれるような気がして。
「ただいま。」
驚かせようと何も言わずに帰国して実家に戻ってみれば、予想以上の反応を見せてくれた。
それもそうだ、たまに連絡を取っていたとは言っても、五年もの間ずっと顔を合わせていなかったのだから。
事情を説明すると、実はいつ帰ってきても良いように部屋はそのままにしてあるんだ、と嬉しそうに両親は言う。
今まで迷惑や心配ばかり掛けてきた二人を安心させる為にも、良い物を創り上げようと改めて心に誓った。
まずはプランを見直し、作品ファイルを製作しよう。
何種類かの絵はポストカードにして販売したい為、それも用意しなければならない。
展示用に新しい額縁を買いに行く必要もあるだろう。
案内状やフライヤーのデザインは、どんな風にすれば来たいと思ってくれるのか。
画廊の予約は既に済ませているとはいえ、まだまだやることは山積みだ。
けれど大変なんて感情は少しもなく、むしろワクワクしていた。
最初に体調不良を感じたのは帰国してから数ヵ月が経ち、街がイルミネーションやクリスマス飾りで彩られ始めた頃。
熱はないのにやたらと身体が怠く、少し咳が出る。
急激に気温が下がったことで、風邪でも引いたのだろう。
そんな程度に考えていた俺は、市販薬を飲んでおけば治ると当たり前のように信じきっていた。
しかし年が明けても一向に回復の兆しが見えず、症状は悪化するばかりで。
軽かった咳はどんどん酷くなっていき、食欲もなく疲れやすい。
それに加えて、胸や背中などが痛むようになった。
「..げほ..っぐ..ごほ..!」
さすがに変ではないかと考え始めた三月のある日、口元を覆った掌にヌメリとした感触があり確かめると、僅かに赤く染まっていた。
まさか血を吐いているとは思いもせず、これが何なのか瞬時に判断することが出来なかった。
仕方なく病院へ行きレントゲンを受けると、肺に影が見つかったのだ。
詳しい検査をする為に数日入院し、連絡が来たのは退院から一週間後のこと。
家族と来て欲しいと言われた時点で察してはいたけれど、診断の結果はやはり癌だった。
それも肺から既に骨や臓器に転移しており、いつ寝たきりになっても可笑しくない状態らしい。
残念ながら半年もてば良い方でしょう、と医者は沈痛な面持ちで余命を告げる。
ひどく取り乱している両親をよそに、俺は冷静に個展までの日数を数えていた。
芸能人でもあるまいし何処から漏れたのかは知らないけれど、翌朝のニュースで自分のことが取り上げられていた。
脚が不自由なうえに病気だなんて、まだ若いのに可哀想。
そんな同情の声がテレビから聞こえ、笑いを堪えきれない。
不運とも呼べるこの現状を喜んでいることに、誰も気付きはしないだろう。
これは神様からのご褒美で、哀しくも辛くもなかった。
何十年も先になると思っていたのに、予想を遥かに上回る早さで朔の元へ逝けるのだから。
もう少し、もう少しだけ、そっちで待っていて。
処方薬で誤魔化せていたのは二ヶ月程だけで、それから病状は悪化の一途を辿った。
ほんのちょっとでも動けば息が切れ、徐々に食事が喉を通らなくなり、血を吐く回数が増え、痛みは強くなるばかり。
みるみるうちに痩せ衰えていき義足を履きこなす体力も失くなって、あっという間に自力で身体を起こすことも出来なくなった。
「..やらせて..お願い、します..」
そして八月に突入した頃には、自室のベッドの上で朦朧としている時間の方が長くなっていた。
もう誕生日まで生きられるかどうかも危うく、個展を開催できるような状態ではなくて。
周りからは何度も中止にしようと言われたけれど、これだけは諦めきれなかった。
後悔を残したくないと必死に頼み込めば、両親は泣きそうな表情で頷き、友人達は呆れたように笑う。
こうして、最期の我が儘に付き合ってもらうことになった。
どうにか迎えられた当日の朝、何故だか妙に身体が軽く、久し振りに自分の力だけで起き上がることが出来た。
今日は顔色が良いみたいだね、そう言う両親の顔は嬉しそうだ。
車椅子を押され会場へ連れて来てもらうと、搬入や受付スタッフの手伝いを引き受けてくれた友人達と合流し準備を始める。
飾り付けの指示を出しながら、沢山の国へ行き数え切れない程の経験をしてきたんだな、と改めてそんなことを考えていた。
オープンと同時に入ってきたのは、忘れるはずのない人達で。
驚いて目を見開く俺に気付くと二人は会釈をし、此方に向かってゆっくりと歩みを進める。
ーーー覚えていてくれたんだ、俺のこと。
一番はじめの来場者は、朔の御両親だったのだ。
慌てて深々と頭を下げて挨拶をすると、少しだけ話をした。
プレゼントした向日葵の絵を未だに朔の傍に飾っていてくれていること、番組や雑誌をチェックしていてくれたこと。
貴方の作品はあの子の幸せそうに笑う顔を思い出させてくれる、そうやって言ってもらえたことが何よりも嬉しかった。
またたく間に来場者は増え、画廊内は熱気に満ちていた。
地元を離れている友人、昔のアルバイト仲間、初めて絵を買ってくれた異国の彼、メディア関係者、それから応援してくれているファン。
沢山の人達が色んな場所から、自分の作品を見る為だけに此処に集まってくれた。
こんなにも喜ばしいことが、他にあるだろうか。
今日という日が素敵なものになったのは皆のおかげで、どれだけ感謝の気持ちを述べても足りなかった。
「..ごほ..ッが、は..げほ..っ..」
個展の終了を告げるように、外では十七時半を知らせるチャイムが鳴っている。
終わったんだ、そう安堵して気を緩ませた瞬間のこと。
突然激しい咳に襲われ呼吸が出来なくなり、バランス感覚を失って車椅子から転げ落ちた。
口から次々と溢れ出る血が、床に真っ赤な水溜まりを作っていく。
身体中の痛みと息苦しさに、焦点も定められなくなって。
慌てた様子で駆け寄ってくる足音に取り乱しているような叫び声が重なって聞こえると、そこで意識はプツリと途絶えた。
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