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イルン幻想譚 ep.1 後日譚 (二次SS)
「ディザート」
こんな甘い囁き声で、自分を真名 で呼ぶ人は、数千年にも渡る人生においても、ただ一人。
「……ファルサー!」
彼の名を叫びながら、アークは身体を起こした。周りの景色を見渡す。どうやら彼は自宅の前で地面に倒れ、気を失っていたようだ。
(また、夢だったか……)
溜め息をつき、服を払ってアークは立ち上がった。今日は、薬の調合に不可欠な植物を探して遠出した。慎重に避けたがドラゴンに遭遇して追われてしまい、必死に逃げた。自宅に帰り着いたと安心し、玄関先に倒れ込んだのだろう。そういう時は白昼夢を見やすい。
ひどく喉が渇いている。かなり汗をかいたようだ。無理もない。アークの見る夢では最後、必ずファルサーは引き裂いたドラゴンを乗り超え坑道の奥へと姿を消す。傷付いて倒れた自分を後に残して。
物心付いた時、アークは人間 の養父母に庇護されていた。だが、アーク自身は人間 ではない。ヒト型種族ではあるが、自分が何族に属するかも分からない。自分と同族の仲間に出会ったこともない。
ただ事実、アークは人間 より遥かに長命だった。アークにとって年月を考えることは意味がない。他の誰かと共有するような時間軸や思い出がないからだ。否、他の誰かと心を通わせ合うことを、アークは極めて慎重に避けてきた。既に何千年と生きているような気がするが、その間に、多くの人間 が自分の前を通り過ぎて行った。アークにとって、彼らはまるで蜻蛉 のように儚く見えた。人間 と親しくなっても、あっという間に彼らは寿命を迎える。自分の心の一部を誰かに明け渡せば、その誰かを失った時に悲しくなるだけだ。
ずっと、そうして孤独に生きてきた。分厚い氷で覆われたように閉ざされたアークの心を、柔らかく温かく溶かしてくれたのが、ファルサーだった。
生まれて初めて『あなたは美しい』『愛している』と言ってくれた人。
しかし、アークには、ファルサーこそ美しく見えた。剣闘士 の息子として生まれ、物心つく前から戦いを生業として生きてきた彼は、鍛え上げた肉体の持ち主であると同時に、王の公妾からも目を掛けられるほどの美男子だった。
……それが、王の嫉妬を掻き立て、無理なミッションを押し付けられた原因にもなったのだろう。
焼きごてで肌に刻み込まれた奴隷の印は、火傷の跡そのものだった。アークがそうっと指で印に触れた時、ファルサーは少し泣きそうな表情で微笑んだ。
奴隷で剣闘士の息子に生まれなければ。
花形剣闘士になって世間の注目を浴びていなければ。
存命の母を人質に取られていなければ。
一個連隊が来ても不可能なドラゴン討伐に、はした金と貧弱な装備しか持たないファルサーが無謀にも一人で挑むなどという、無茶なミッションを強いられることはなかっただろう。
だが、ファルサーがドラゴン討伐を下命されていなければ、アークと出会うこともなかったのだ。
アークが、生まれて初めて誰かに肌を許すことも。
初めてだと打ち明けるのは、誇り高いアークには抵抗があったが、ファルサーは意外にも喜んでくれた。何の技巧もなく、ただ彼の唇や指先に翻弄され、あられもない声をあげるだけだったのに。自分と抱き合って、彼は良かっただろうか。遂に聞くことすらできなかった。
夜が明けてきた。地平線から太陽が顔を出すにつれ、空の色は、群青色から淡青色へ、そして淡い橙色へと染まる。
(抱き合った時のファルサーの、上気した肌みたいだ……)
最初で最後となった彼との抱擁を久し振りに思い出し、アークの胸は詰まる。戸惑い、ひたすらに彼の名を呼ぶだけの自分が彼を受け入れられるようになるまで、根気強くアークの心と身体に向き合ってくれた。自分を貫き、揺さぶる彼の肌の熱も、湿った柔らかい唇の感触すら、まだ忘れていないのに。
(ファルサー。私はまだ君を諦めてなどいない。
次にやってくる挑戦者に見込みがありそうならば、私は彼らに付いて行く。そして君を探し出してみせる)
ファルサー救出の試みは、幾度も不首尾に終わっているが、アークは全く諦めてはいない。彼の白銀の髪と睫毛、その少年のような柔らかな白い頬を朝日が照らす。昇る太陽に向かって、彼は、愛しい人に心の中で呼び掛けた。
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