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第73話

 柄にもなく、鼻歌を歌い出しそうだった。ゲームセンターで透にとってもらったぬいぐるみは、玄関にあるキーケースに置こう。ささいな決定にわくわくしながら、扉を開ける。最初の内はそうでもなかったのに、独り暮らしに慣れてきてから、次第にただいまを言わなくなった。とりあえず洗面所に向かい、手を洗い、うがいをして――そこで、気づいた。 「……あれ?」  最初は、なんで自分じゃない人が部屋にいるのだろうと思った。でも、侵入者だとか、不審者だとは思わなかった。だって、よく見知った顔だったから。  鏡の中に映っている顔を、自分はよく知っている。つり上がった目。その下には濃い隈が刻まれていて、口角は上がらず、口元はぎゅっと結ばれたままだ。何日も徹夜を繰り返したかのように疲れ切った表情。生まれてから今まで、一度も笑ったことがないかのような顔。人を見下していそうな、不機嫌そうな目。それは、前世の自分の顔。二十数年間、自分が見てきて、見る度にうんざりしていた顔だった。 「なんで……」  気のせいか。夕方に白昼夢でも見ているのか。  もう一度、顔を洗う。水を滴らせたままで鏡を覗きこむと、今の自分の、綺麗な顔が映っていた。  ただの夢。悪い妄想。そんな風に心の中で片づけられたらよかった。気になって、何度も鏡を見る。部屋に戻っておもむろにテレビをつけても内容が入って来ず、5分とも経たずに洗面所に駆け出し鏡を見る。  顔は、見る度に変わっていた。前世の顔と、現世の顔が交互に見えているようだった。  何が起こってるんだ。こんなの、まるで元の顔に戻りつつあるみたいじゃないか。  どうしよう。どうすればいい。混乱した頭の中で、言われてきた言葉が堂々巡りを続けている。  先輩はみんなの王子様ですもん。  まさかこーんなに清楚で綺麗な子だったなんて。  先輩の方が数億倍かっこいいです!  面白いところが好きだな。清廉潔白な王子様かと思ったら、意外と抜けてるところとか。  昔の自分には、意味も価値もないのに。  何をするでもなく、焦りを誤魔化すように廊下を行ったり来たりする。そして、その度に顔を確認する。現状は何も変わらないのに。  誰か、嘘だと言ってほしい。帰ってきて、初めて透とデートをして疲れているんだと。そのまま玄関で眠りこけてしまうなんて間抜けすぎるだろ、と。  お願い。誰か。誰か……透。  心の中の願いが届いたかのように。携帯が着信を告げる。メッセージではなく、電話の方だった。

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