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花婿
一度瞬きをした後、耳の裏がすうっと冷えていく感覚があった。
首筋に痛みを感じるほど強張っていて、カーンが見つめる方向を振り向くことができないでいる。
このツチ族の男が何を要求しているのか、すぐには理解できなかった。
「妹のヤタと契って欲しい」
たったひとりに向けられた言葉。ようやく頭の中に流れ込んでくる。
「三日後に連れて行く。それからは、お前はツチ族の男だ」
――そんなの。
そんなのは、駄目に決まっているだろう。
喉が震えるばかりで声は出ない。目の前のツチ族の男の顔を見ることもできず、視線は足元に落ちた。肌を濡らす汗が、顎を伝って乾いた大地に落ちる。
誰ひとり声を上げず、埃を孕んだ風が吹きつけ鼓膜を揺らす。隣に立つヤミールの華奢な拳に力がこもるのが視界の端に入った。
「長の息子・カーン。クバルを引き渡すことはできない」
最初に言葉を発したヘリオサの返答に、ほんのわずかに呼吸が楽になる。
「私はヘリオサの位について二年、至らぬところや不足しているものが多く、まだ先のヘリオサのクバルに多くを習わなければならない。あなたの妹の夫として連れて行かれるとなると、それは私にとって、またダイハンの民にとって大きな喪失となる」
カーンはじっとヤミールの言葉に耳を傾けていた。
「クバルがいなくなるとダイハンの精神的支柱を失うことになる。情けないことに、今の私にはクバルの不足を補うだけの力がない。花婿……人質として連れて行くのであれば、クバルでなくともいいだろう。もし労働力を必要とするのなら、相応しい者を数人……渡すこともできる。馬や武器が必要であればある程度応じる。望みを、言ってくれ」
毅然とした声でヤミールは言い放った。王として、背筋を伸ばし真正面からカーンの琥珀を見つめる。
しかしカーンは、確かに首を横に振った。
「労働力も、馬も武器も必要ない。俺たちの望みは、先の王クバルただひとり。この条件以外で、ダイハン族との和解に応じる気はない。クバルの不在がダイハンへ及ぼす影響は、悪いが俺たちには関係のない話だ」
「どうしてクバルでないといけないのです」
「先の偉大なる王・クバルでないと意味がない。無名の戦士は妹の夫に相応しくないと、父は言う」
「お父上に譲歩するつもりは」
「ない。俺にも、ない」
ヤミールが押し黙る。砂を擦る音がして、カーンの尖った履き物の先端がこちらを向いた。
「お前か」
顔を上げると、カーンは間違いなくブラッドを見つめていた。
こめかみがどくどくと脈打つ音が聞こえる。
「ヘリオサ・クバルがアステレルラとして北から迎えた男というのは、お前か」
「……ああ」
掠れた音が出る。酷く喉が渇いていて、踵を返して水を飲みたいと思った。
カーンはブラッドの金の頭髪と深緑の目を見つめ、顎を反らす。
「今は違うだろう」
「……」
「婚姻を結んではいない。クバルを連れていくと問題があるか?」
ブラッドは、温度のないカーンの瞳を見つめ返した。渇いてひりついた唇を開くが、舌が強張って言葉が出なかった。
「罠でないと証明できるか?」
後方から声がして、ブラッドは呪いが解けたようにようやく振り返ることができた。幾重になった戦士たちが身体を反らして道を開けると、クバルとカーンの視線が交錯する。クバルは、ブラッド越しにカーンを凝視していた。
「俺をひとり連れて行き、ダイハンを陥れる謀略でないと証明できるのか」
「できない」
「ならば断る」
漂う熱気が肌を舐め、じっとりと濃厚な汗を掻かせる。ブラッドは表情のないクバルの顔をじっと見つめた。一瞥を寄越した血色の目は、断固とした意志が宿っている。
気分を害した風もなく、カーンは愛馬の鼻面を撫で、鐙に足をかけた。
「では、和解の話はなかったことになる。この先、同じ要求は受けつけない」
ひらりと飛び乗り、戦士たちを見渡す。再度クバルを見ることはなく、カーンは高い位置からヤミールを見下ろした。
「アトレイアに手を出さないと約束することはできない。俺たちは遠い祖先の時代から、他を襲い、奪って生きてきた。必要があればアトレイアへも同じようにする」
「カーン」
「この数年、北との境の付近にはお前たちダイハン族の目が常にあった。だから避けてきた。けれどこれからは遠慮はしない。俺たちが生き延びるためだ」
「アトレイアの報復に遭う。攻撃を受けるのはダイハンだけでない、赤い大地に生きるすべての部族の民だ」
「俺たちツチ族には関係がない」
関係がない訳がない。ツチ族も、ダイハンやガラガ族、フ族と同様に、乾いた赤い大地に生きる部族のひとつだ。国境を侵せば、アトレイアは二年前の戦を再開させ、南の異民族を蹂躙し始めるだろう。
「関係ないとは? 赤い大地の民は、今争うべきではない。北の攻撃を避けるために、協力しなければならない。ガラガ族も、ロジン族も、ハカ族も、今まで敵対してきた部族も、みな意思をひとつにして生きなければならない。ツチ族も当然」
「そもそもアトレイアとの確執は、お前たちダイハン族のものだろう。お前たちが始めたアトレイアとの争いのせいで、他の部族も巻き込まれることになった。……それでいて、俺たちの最大限譲歩する条件を飲まず自分たちの希望を押しつけるのは、虫がよすぎるんじゃないか」
隣のヤミールが声を飲む。
「お前たちとの対話は、もうしない。次にいつかヘリオススを訪れる時は、今よりも大勢で来るだろう。話をするためじゃない。襲い、殺し、奪うためだ」
カーンは高らかに宣言し、仲間へ向けて手を掲げた。追従していたツチ族の男たちは馬に飛び乗る。手綱を引き、馬首の向きを変え、ヘリオススまで辿った道を戻ろうとする。
「待ってください、カーン」
突然、身体の力がふっと抜けて、ブラッドは一歩を踏み出す。
「待て」
縺れそうになる舌を正し、気づけばブラッドは咄嗟に声を張り上げていた。
馬の脚を止めたカーンが、おもむろに振り向く。眩しい陽光と胡乱な眼差しを、ブラッドは肩で息をしながら受けとめる。
呼吸が浅く、心拍数が上がっていくのがわかる。隣に立ち尽くすヤミールの呆気にとられたような視線が深く突き刺さる。
ブラッドは足裏の砂を擦り、少し離れた場所に佇むクバルへ身体の向きを変えた。
「行けよ」
風に熱砂が巻き上がり視界を霞ませる。ブラッドは眼に砂が入るのも厭わず、心音とは裏腹に静穏な眼差しで彼を見た。結った長髪が揺れている。
クバルは一瞬、目を見開いた。周囲には風の音以外なく、みな声を飲み、沈黙を守っている。否、破れずにいる。
驚きを露にしたクバルの表情はすぐに消えた。
「……何て言った?」
這うように低く、感情のない冷えた声だった。ブラッドは息を飲み、震える唇を動かす。
「ツチ族と一緒に行け。クバル」
風が砂を浚い、汗に湿った額を撫でる。乾いた唇を舐め、ブラッドははっきりと口にした。
クバルの表情に変化はない。切れ長の目は何も浮かべずにブラッドを捉えている。ただ、噛み締めた歯が首筋を強張らせたのがわかった。
「お前に決める権利があると思うのか?」
冷たい刃のような声が喉を撫でる。
誰もが風に呼吸をさらわれてしまったように音を立てなかった。音を立てれば死んでしまうかのように。クバルから発せられる異様な覇気を肌で感じ取っていた。
皮膚を焼く威圧感が、痛い。こんな感情を向けられたことなんか、一度もない。
ブラッドは、強張る舌を動かす。先刻よりも喉が渇いている。
「当然、俺に決める権利はない。決めるのはヘリオサと、当人のお前だ」
「なら、俺に指図するな」
「現時点で他に道があるか? ダイハンを守る方法が」
クバルが行くか――あるいは、もはや交渉に応じないのならツチ族を滅ぼしてしまうか。
後者を選ぶことは決してない。それをしてしまったら、これまで辛抱し築き上げてきたものが崩れ落ちれしまう。二年前のように、多くの仲間の命が失われてしまう。ヤミールも、ブラッドも、クバルも、それを望まない。
ならば現時点で下せる最善の決断は、カーンの提示した条件を認めることだ。
「ダイハンをまた危険に晒したくはないだろ、クバル」
「だから……俺に、ツチ族のもとへ行けと?」
「ダイハンを守るためなら、お前ひとり犠牲にすることは厭わない」
強く砂を踏みしめる音とともに、クバルが一歩、身を乗り出す。しかしそれ以上、近づくことはしなかった。
「お前自身も、そう考えているだろ。……それとも違うのか。仕方ないことだと……ダイハンが危機に陥ってもいいと?」
「お前は……嫌な問い方をするな」
唸るようにクバルが吐き捨てる。
不意に逸らされた視線が再び向けられた時には、確かに、嫌悪が込められているように思えた。
「俺が行くのを拒むのは、連中の罠であることを警戒して人質になりたくないからだと、本気で思っている訳じゃないだろう」
「……ダイハンの民のことは、任せろ。ヘリオサはああ言ったが、お前ひとりいなくても大きな支障はない。ヤミールの側には俺がついてる。案外、人ひとりの影響力なんざ小さいもんだ」
「ブラッドフォード」
怒気がふたりの間の空気を震わせる。ブラッドははっとして、口を閉ざした。酷く息苦しく、項が強張るように感じ、視線を足元に落とした。下唇を噛んで立ち尽くす。
侮辱されて憤っているのでないことはわかっている。感情を表に出すことの少ないクバルが怒りを露にしている理由を、ブラッドは知っている。
ブラッドは恐る恐る、痛々しいほど静かな、けれど激憤を滲ませるクバルに視線を絡めた。その中にあるものを確かめるように、見返した。
頭頂に落ちた長い嘆息が、ブラッドの意識を引き戻す。
「猶予は三日だ」
呆れたように馬上のカーンは告げた。
「三日後にまた来る。それまでに、どうするか決めろ」
簡潔に言ってカーンは今度こそ馬を走らせた。濃い土埃が舞い上がり、ブラッドは顔を顰める。ツチ族の男たちはカーンの後を追い、すぐに彼らの姿は見えなくなった。
残された者たちは立ち尽くす。ヤミールが遠慮がちにブラッドを見つめる。
「クバル」
掠れた声で彼の名前を呼んだ途端、クバルは無言で身を翻す。すぐ側の天幕から自身の愛馬を引き、誰かが引き留める間もなく跨がると手綱を引いて走らせてしまう。青毛の美しい馬がヘリオススを去るのをブラッドは見ることができず、クバルの佇んでいた土の上に呆然と目を落としていた。
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