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強がり

 カーン率いるツチ族の一行がヘリオススを去った後、残った者たちの間に沈黙が落ちた。それも一瞬で、すぐに戦士の中からは、ツチ族に攻撃をしかけようとする憤りの声が上がった。クバルを引き渡す必要はなく、ツチ族を赤い大地から討滅してしまえば万事問題ないと主張した。  しかしヘリオサ・ヤミールは、ツチ族との戦いを望む戦士たちに強く断言した。その選択だけは絶対にしないと。ツチ族との反目を深め大きな争いになれば、どれだけの民が犠牲になるか。どれだけの子どもが親を失うか。この二年、敵対していた部族と手を結び殺し合うことをやめた。ダイハンの民を守るためにしてきたことなのに、これまでの成果を裏切ることになってしまう。  戦士たちはその後解散し、カーンの来客がある前に問われていた代理決闘の件は有耶無耶になった。  ヘリオサから険しい顔で今日はもう休むよう伝えられたブラッドは、ただ立ち尽くしていただけだというのに心底疲れた足を引き摺ってヘリオススへと戻った。  天幕へと戻る最中、よく知った声に呼び止められた。 「ブラッドフォード! 少し、尋ねたいのですが」  ブラッドよりも十以上年上の女が、息せき切って近づいてくる。彼女は肩で息をしながら、額を流れる汗を手の甲で拭う。濡れた栗色の頭髪は、陽光にきらきらと光っていた。 「どうした」 「クバルを見ませんでしたか?」  グランの丸い茶色の瞳は、無邪気にブラッドを見つめている。当然知っているだろうと、息を整えながらブラッドの返答を待っていた。衣服の胸元が色を濃く変えているのは、激しく動いた後だからだろう。 「鍛練でもしていたのか?」 「ええ、子どもたちに稽古をつけていたのですが、私を相手にするのはもう飽きたと。クバルと手合わせをしたいと言って聞かないんです」  グランは、ツチ族の首領の息子率いる一行がヘリオススを訪れたことを、まだ知らないのだ。すぐにヘリオスス中の民が、彼らがなぜ訪れ、何を要求して行ったのか知ることになるだろうが、今はその場にいた誰もが混乱を極め動揺している最中だ。ブラッドの心中も、穏やかではない。 「恐れ多い奴らだな。先代のヘリオサに挑むなんて」 「そうでしょう。だから一度本気のクバルと戦わせて、どれだけ無謀なことを言っているのかわからせてやらないと」 「あいつは今いねえよ」 「いない?」  グランは、酷くがっかりした様子で、額に手を置いた。 「せめて約束だけでも取りつけておきたいんですが……。任務でどこか他の部族のところへ? いつ戻るんですか?」 「さあ……知らん」  ブラッドの素っ気ない返答に、グランは柔らかだった表情を変化させた。眉を顰め、少し背の高いブラッドを上目に窺う。ブラッドの様子が普段と違うと、元従者の女は悟ったらしい。 「……あなたが聞いていないんですか?」 「何も言わずに、出て行ったからな」 「喧嘩するなんて珍しいですね」  ブラッドは、自分が悄然と歩いてきたヘリオススの東を振り返った。  喧嘩はしていない。ただ、言葉で傷つけ、傷ついただけだ。  赤い巨岩の聳える果てを見やるブラッドの精悍な横顔を、グランは密やかに見つめる。  クバルはその日、ヘリオススに戻って来なかった。  翌日も帰らなかった。カーン率いるツチ族の来訪はすぐさまヘリオスス中に知れ渡ることになり、馬で出て行ったきり帰還しないクバルの安否をみな案じたが、彼が無闇な行動を起こして大事になるとは、ブラッドは思っていなかった。  衝動的に出て行ったとしても、案外慎重で思慮深い男は、どこかダイハンの村を訪ねている筈だ。乾いた赤い大地で夜を明かすことほど命知らずな行動はない。間違いなく眠っている間に獣に襲われて餌食になるからだ。  カーンが去って二日経過した。彼の言った期日の「三日後」は、明日に迫っていた。 「俺は間違ったことを言ったか?」  洞窟の中の一室、戦士たちが去った後の静けさで、ブラッドはヘリオサに問いかけた。 「いいえ」  一拍置いて、惑いのない、硬い声が天井の硬い岩まで響き渡る。  お前がツチ族とともに行くのが、ダイハンのためだと、あの時ブラッドは話した。そう思ったからだ。実際、その通りだ。 「ダイハンを守るべき戦士の言葉として至極真っ当です。カーンが背中を向けた時に、私が、すぐに答えるべきでした。クバルを渡すと」  ヤミールの声に情けの色はなかった。ダイハンの王として、一番に守るべきは民の命と生活だと心得ているからだ。守るべきは、クバルひとりでない。ただ、瞬時に心を決めることができなかっただけだ。誰もがそうだ。先代の王を花婿として引き渡すと、即決することなどできないに決まっている。 「迷うのは、当然だ。ヘリオサ」 「ブラッドフォードも、迷った末に促したのでしょう」  ヤミールの真摯な眼差しが、窺うようにブラッドを見上げてくる。 「間違ったことは言っていません。……ですが、あなたを想うクバルへの言葉としては、適切ではありませんでした」 「じゃあ、何て言えばよかったんだ?」  それとも、何も口出しをせずに、黙って事の成り行きを眺めていればよかったのか。そして、ダイハンとツチ族の決裂という、訪れるだろう未来を無気力に待てばいいのか。 「俺はダイハンのために、言ったんだ。あいつがどう思うかなんて、あの状況で気にしろって?」 「ブラッドフォードが口にした内容は問題ではありません。ブラッドフォードが言ったという事実が、……」  そこでヤミールは口を噤み、俯いてしまった。  ヤミールの言いたいことは理解できる。けれどブラッドが取るべき行動は、ダイハンの未来を思えばあれ以外に考えられなかった。ヤミールもそのことは心得ていて、結果としてクバルが背を向けて立ち去ってしまった要因はブラッドにあるとはいえ、別段ブラッドを非難したい訳ではないだろう。   「……ヘリオサは、カーンを呼び止めてどうしようとした」 「私は、彼への説得をもう一度試みようとしたのです。……ですが、彼に譲る気は、完全になかったと思います。結果として、ブラッドフォードがいなければ私はカーンをあのまま行かせてしまっていたでしょう」  それはヤミールが考える、最も避けるべき最悪の事態に繋がっていただろう。可能性を思い浮かべ、ヤミールは端整な美貌を歪ませる。 「ヤミール。他の戦士たちが何と言おうと、ツチ族との戦いは避けるべきだ」 「……その通りです。考えを改める気はありません」  カーンの提示した条件通りに、先代のヘリオサをツチ族の花婿として送り出す、という決断だ。 「クバルがいなくても、俺たちは大丈夫だ。あいつひとりいなくなったところで、ダイハンは変わらない」  ヤミールは恐れに満ちた顔をゆっくりと上げ、ブラッドを見つめた。酷く傷ついたように、濃い目の縁に、ぐっと力を込める。長い睫毛を震わせて、何かに縋りたいように、身体の横に力なく垂れ下がっていた手をわずかに持ち上げるが、ブラッドの衣服の裾を掴むでもなく、所在をなくしたように宙でさまよった。 「あいつがいたことで上手く運んだ交渉もあったが、あくまで今のクバルは、ただの戦士だ。ヘリオサはお前なんだ。これからは、あいつの力がなくてもやっていかなきゃならない。できるだろ。カーンに凄んでみせたヘリオサの威厳があれば」 「ブラッドフォード」 「俺は支えてやれる。俺は別にいなくならないしな。それとも、俺ひとりじゃ不満か」 「いいえ、十分なほどです。私は、平気です。ヘリオサとして、誰の助けがなくともダイハンを導いていく覚悟はできています」  苦しげな表情とは裏腹に、ヤミールの静謐な声音の中には断固とした意思が感じられた。ブラッドは、わずかに眉を持ち上げる。 「クバルを渡せない理由としてあのように言ったのは、確かに理由のひとつでありますが……建前に近いです。単純に、クバルが遠くへ去ってしまうのが嫌だからです」 「みな、同じ思いのはずだ。十年以上、王としてダイハンを導いてきた男だ。戦士も民も、惜しんでる」 「一番悲しいのは、あなたでしょう。ブラッドフォード」  まるで追及しているように厳しい声で問われ、ブラッドは声を飲んだ。 「一番たえられないのは、あなただ」  ヤミールの赤い目が、じっと見上げる。心の内を見透かしてしまいそうな鋭い視線にたじろぎ、ブラッドは無意識に指の腹で喉元を擦る。 「俺は平気だ。ダイハンのためには仕方ないことだってわかってる。じゃなきゃわざわざ自分で、行けなんて言うか」 「私に嘘を吐かないでください、ブラッドフォード」  それはヘリオサの命令だろうか。ヤミールの薄い手が、ブラッドの衣服の胸元をぐしゃりと握る。元女王の僕が、よくここまで要求するようになったと、ブラッドは感心する。 「誰よりも苦しいはずです。でなければ、カーンがクバルの名を呼んだ時、あんな顔をしないでしょう」 「あんな顔って……そんなに酷い面をしてたか? 俺は」  ブラッドは少し湿った左手で彼の手首を掴み、やんわりと引き剥がした。唇の端をつり上げ軽く笑ったつもりだったが、酷く息切れしたような感覚が胸に残った。 「ヘリオサ。俺が悲しんだところで、何も変わらない。クバルがヘリオススを去らなくてもいいってことにはならねえ」 「……そうです」 「クバル自身だって、結局のところわかってるはずだ。二日も出て行ったきり、どこで何してるのかは知らねえけどな。自分がどうするべきか、わかってる」  だからそろそろ、ヘリオススへ戻ってくるだろう。明日には再びカーンが訪れるのだ。ダイハンの出した結論を聞くために。  視線を伏せたヤミールが浅く頷く。ブラッドは彼の揺れる睫毛を見下ろしながら、肺の中に淀んだ息を長く押し出した。ヤミールの手首を離した左手が、少し震えている。

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