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答え

 普段は外に焚かれた炎の橙が天幕の内側にぼんやりと映るのだが、今夜はすでに明かりが絶えていた。密やかな足音さえも聞こえず、ヘリオススの者たちはみな自らの住み処へと入ってしまったようだった。  静かな夜だった。遥か遠くから獣の遠吠えが聞こえる以外は、自分の衣擦れの音だけが響く。  早々に沐浴を済ませ、岩に毛皮を敷き詰めたベッドの上に寝そべったブラッドは、薄い瞼を下ろしながらも眠れずにいた。  昨夜も、その前夜も、眠りに入るのに時間を要した。男ふたりが横になっても手を伸ばす余裕のある寝床をひとり占領したものの、慣れない広さに違和感が拭えずにいる。  身体を転がしても触れる体温がない。昨夜も、その前夜も。 「……は」  天井を仰ぎ、腕で目もとを覆い隠す。乾いた笑いが唇から漏れ出る。  ――ダイハンのため。他に道はない。  あの炎天の下、強張りの解けた口は、正論を吐いた。ダイハンの民のために、お前ひとりを犠牲にするのも厭わないと。  別に死ぬ訳ではない。クバルひとり人質になるだけで、ツチ族との和解が実現し、ダイハンの民が平穏を得られるのであれば、必要な犠牲だ。当然の措置だ。  よくもすらすらと言葉が出てきたものだと、二日前の自分を思う。  自然と噛み締めていた奥歯が、ぎしりと軋む。ブラッドは細く長く、息を吐いた。吐息が震えている。  ダイハンのために自分の気持ちを犠牲にすることくらい、何のことはない。  そんなのは嘘だ。 「ふざけるな……」  苦々しい、唸るような音が喉から漏れる。ブラッドは右腕で目元を覆った。  本当は、カーンに唾でも吐いてやりたい気分だった。  そんな馬鹿げた条件があるか。妹の夫?  クバルでない、誰か別の男にしろ。伴侶も子もなく、ヘリオススを離れても問題のない、自分の身を守ることができる戦士なら、誰でもいいだろう。ダイハンの戦士はみな勇猛だ。先代のヘリオサでなくたって、首領の娘には相応な筈だ。  そんな身勝手な激情が、腹の底に埋まっていた。舌が引き攣れて叫ぶことはできなくて、果てはカーンの去り際に、正反対のことを口にしていた。クバルに、行けと。  そうするしかなかった。戦士として、正しい行いだった。 「ふざけるなよ」  同じ悪態が、噛み締めた歯の間から滲み出す。  では、行って欲しくないと、ずっとヘリオススにいて欲しいと願うことは、間違いなのか。ともに生きるという誓いを反古にせず守ろうとすることは、身勝手で、ダイハンの戦士として相応しくない行動だったのか。自分の気持ちは、許されないものなのか。ブラッドにはわからない。  ――カーンに結論を聞かせるのは明日だ。  クバルは、どうするつもりだろう。  ツチ族のもとへ行くと明言すべきだ。そうでもしてくれないと、自分の意思が揺らいでしまいそうだった。クバルにも、みなの前でも、ヤミールにも、行くべきだと断言したのだ。少し小突いただけでも崩壊してしまいそうな決意を固めなければならないのだ。明日カーンの前でも、あるいは今ブラッドの目の前でもいい。行く、とたった一言口にするだけで、すべてが解決する。彼はきっと、正しい選択をする。  そのうちに炎が燭台の蝋をすべて溶かし尽くして、天幕の中は暗闇に包まれた。  物音がして目が覚めると、微睡みに近かった意識はすぐに浮上し、ブラッドはぱっと目を開く。眼前に存在するのは濃厚な闇だ。  横向きに寝そべった身体の後方に人の気配を感じ、自然と身が硬くなる。なぜか覚醒していることを知られたくない気がして、不自然に思われないよう極力穏やかな呼吸を続けた。  天幕の中は真っ暗で、蝋がすべて溶けてしまったのだとわかった。随分と時間が経過したのだろう。  真夜中の訪問者は、物音から察するに、濡れた布で身体を拭っていた。水を絞る音がし、しばし静が落ちる。それからすぐに掛布にしている毛皮が不意に持ち上がり、人の気配がベッドの中に入ってきた。  いつもであれば肌を寄せ合って体温を感じるのに、向けた背にすら触れる温もりはない。 「起きているんだろう」  普段より遠い声の聞こえ方で、向こうも背を向けていることがわかった。 「ひとりになって、少し考えた」  低く抑揚の少ない声が、返答のない暗闇の中に留まる。  少しどころじゃない。二日も不在にしていた。責め立てたくなったが、声を飲んで、嘘の寝息も絶やした。  普段と同じ、淡々としながらも冷たさを感じさせない声音は、彼がもう腹を立ててはいないことを表していた。  早く帰ってきて結論を聞かせろと願ったくせに、急に聞くのが恐ろしくなってきて、手元の毛皮を握り締める。 「俺は、ダイハンを守ると誓った。ブラッドやヤミールとともに、この場所でだ。ここを離れたら、誓いを破ることになる」  返事をせず、息を潜めて、静寂の中の低い囁きを黙って聞く。 「お前と生きると誓った。……ブラッドはダイハンに、ヤミールにとって必要な人間だ。だからお前は、ヘリオススにいなければならない。お前がヘリオススにいるなら、俺もヘリオススにいて、一緒に生きる」 「……二日考えた結果がそれかよ」  意図せず呟いた声は掠れていた。酷く単純な、幼稚な答えだった。  一緒にいたいから行かない。行きたくないから行かない。そんな結論、子どもでも出せる。  ブラッドは浅く息を押し出して、同じ寝床に入っているのに遠く感じる男に、言葉を続けた。 「お前は行くんだ。ヘリオススにいなくても……お前が行くだけで、ダイハンを守ることができる」 「俺が行っていいのか」 「そう言っただろ。何度も言わせるつもりか」  意識したつもりはないのに、突き放すような語調になった。 「それとも、お前はツチ族と戦いたいのか? お前が行かないなら、ツチ族とは戦って、連中をダイハンの支配下に置くしかないんだ。万一連中を野放しにしてアトレイアに攻撃でもさせてみろ」 「アトレイアは、今度こそダイハンを滅ぼすために攻めてくる」 「そうだ。だから、お前は行くしかない」  こちらはもう割りきっている。惜しむ心はない。反論の余地を与えないよう強く断言する。  だから早く、行くと言って欲しい。クバルさえ心を決めてくれれば、苦しい思いをするのも終わる。クバル自身が決めるのなら、ブラッドが惜しみ、悲嘆することも許されなくなる。本人が行くと明言するのなら、ブラッドに引き留める権利はなくなるのだ。 「お前は、それでいいのか」  背中越しに問う声は、ブラッドの胸を無遠慮に打つ。紺色に染まった深い水底を覗き込むように、ブラッドの内側を暴こうとする。  心臓がうるさく鳴っていて、煩わしい。意識的に深く息を吸い、過ぎた空気が撫でる唇はからからに乾いている。  夜明けの大地の砂を少しだけ浚っていく風のように静穏な響きが、強張る背中に問う。 「ブラッド。お前は、俺がツチ族の女と婚姻を結んで、ツチ族として生きることを選んで、会うことができなくなっても、いいと言うのか」  ――行け。仕方のないことだ。  吐息は音を伴わずに、ただ目の前の空気を震わせるだけで、本音を覆い隠す言葉を伝えてはくれない。  寂寞の大地にひとり放り出されたような。途方に暮れた男の声が、胸を絞める。 「お前は、俺を忘れて生きていくのか」  目の奥がかっと熱くなって、ブラッドは震える喉を搾った。  ――そんなこと。 「そんなこと……できる訳、ねえだろうが……」  かろうじて音を伴った声を押し出す。ブラッドは勢いよく掛布を剥いで振り返った。  暗闇に慣れた目は、ぼんやりと輪郭を捉える。こちらに向けた裸の背を見下ろし、ブラッドは息苦しさを覚える胸に息を吸い込んだ。 「俺は、お前と生きると決めたんだ! 故郷も、サーバルドの姓も、右手も捨てて、お前とここで生きることを選んだ。お前が守りたかったダイハンを救うために……心からそうしたいと思って、自分に正直に決めた」  辛抱していたのに、抑えていた感情は一度溢れ出したら止まらなかった。  今度は明確な言葉として次々と口から流れ出ていく。  お前がいなくなっていい。ツチ族と一緒に行け。それがダイハンを守ることになる。そう告げなければならないのに、実際に叫んでいるのは正反対のことだ。  これでは駄目だ。そう思うのに、振り仰いだクバルの顔を見たら、理性的な考えなど消えてしまった。 「何より……何より、お前を愛してる」  身体を起こしたクバルの赤い光が、そっと視線を寄越す。 「お前と離れたくない。なのになぜ……ダイハンを、この赤い大地を守るために、お前を手放さなきゃならない」 「……ブラッド」  傷を負ったように顰められたクバルの目を見るのが、痛くて、辛くて、たまらなかった。ブラッドは故意に片頬を持ち上げたが、上手く自嘲できた気もしない。 「お前がツチ族の女と結婚するなんて、なあ、そんな馬鹿な話があるか……? いい訳ねえだろ、嫌に決まってる。お前が、俺じゃない誰かと一緒に生きるなんて、想像も、したくねえ……」  伸びた腕がブラッドの身体を抱き締める。太い腕にぐっと締めつけられ、歪んだ表情が男の肩口に埋まる。肌に残った汗の匂いと砂の匂いが、余計にブラッドの胸を苦しくさせた。  この太陽に焼けた大地の香りと、じわりと伝播して安堵を与える温もりを、手放したくないと思った。 「……ブラッド。俺は」  絶対に手放したくない。クバルが同じ気持ちでいることは、たとえ今こうして触れていなくてもわかるだろう。  互いの生涯に、互いが必要だとは思わない。ブラッドもクバルも、互いがいなくともひとりで生きていける、強い男だ。  それでも一緒に生きることを選んで、誓った。もうヘリオサとアステレルラではなく、夫と妻ではなく、恋人と称するのも違う。この関係につけるべき名前はわからない、けれどひとつ明確に言えるのは、かけがえのない存在になってしまったということだ。  クバルが、耳元で息を吸った。 「俺は、行く」  クバルの声が心を打つ。触れた胸から、どくどくと心臓の鼓動が伝わってくる。  腕の力が緩んで、クバルと正面から顔を合わせた。濃い睫毛の下で、赤色が揺れている。 「お前は、心では反対のことを思っていても、自分の感情を切り捨てて、すべきことを選べる。強い覚悟で、俺に行けと言った」 「ああ……」  喪失感と安堵が、身体の中に同時に居座っている。苦しい、けれど温かな充足感もある。何もかもがちぐはぐだった。この決断を下したクバルが酷く愛しいということだけが、唯一明確なことだった。 「俺も、お前のように強くいなければならない、ブラッド。俺は、俺のすべきことをする。だから俺は行く」  力強い眼光でブラッドを見据えるクバルは、わずかに力がこめられた目もととは反対に、唇には小さな笑みを湛えている。その表情がたまらなく切なく、肺が縮んでしまったように息切れがして、それを誤魔化すように、ブラッドはクバルの身体を強く抱き締めた。

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