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出立の日

 翌朝、ヘリオサへ決意を伝えると、クバルは少ない荷物を纏める。ファルカタ、ナイフ、止血用の薬草、幼い頃に両親から貰った鉱石、先の命名日にブラッドから贈られた、獣の骨と皮で作られた櫛。  別れを惜しみ、ヘリオススの戦士と民たちは杯をひとつ空けた。本来であれば前夜に宴を開き、旅立ちへ向けて無事を願うところだが、カーンとの約束まで間もないため、朝からダイハンの者たちは慌ただしく別れの挨拶をした。  太陽が真上に到達する少し前、カーンは再びヘリオススを訪れた。クバルの出した答えを聞き、ツチ族の男になる証として長い黒髪を切り落とすことを要求したが、クバルは拒んだ。心は常にヘリオススにある。ダイハンを離れても、ダイハンの戦士であり続ける。族長の息子・カーンはクバルへ敬意を払い、それを許した。 「ダイハンの王、ヘリオサ・ヤミールに誓う。俺たちツチ族は、ダイハンの地を敵意を持って踏まない。また、アトレイアの地を武器を携えて踏まない」  カーンは拳で己の胸を叩き、ヤミールの前で約束した。ヤミールは男の言葉を信じ、寂寥をこらえ、硬く頷く。  カーンとともにヤミールたちに向き合うクバルは、黒い愛馬の手綱を握りながら、遠く、ヘリオススの赤い洞窟を見つめている。  生まれ育った故郷。王として長い時間守ってきた地。惜しくない訳がないのだ。ブラッドは、あえて平常を装い、今日この地を去っていく男に声をかけた。 「ヘリオススのことは心配するな。ヤミールと、俺と、腹心の戦士たちで上手くやっていく」 「……心配はしていない。お前たちのことは信頼している」 「クバル」  ブラッドは、カーンの隣に佇むクバルに寄り、昨夜も触れ合った身体を片腕で抱き締めた。そして共通語で囁いた。 「いつもお前の無事を祈っている」 「……ああ。俺もだ。いつもお前を想う」  抱いた身体は、熱された大地と砂の匂いがする。これ以上触れていると離れられなくなってしまいそうで、ブラッドは一度深く息を吸い込むと、ぱっと身体を離した。指先の温もりが去っていく。  クバルは伏せていた瞼を上げ、ヤミールに向き直った。カーンは背を向け、後方に控えるツチ族の男たちと会話をしている。 「同盟を結んだ部族同士だ。二度と会えなくなる訳じゃない」 「そうであることを願います、クバル。長く支えてくださったこと、深く感謝します」  ヤミールは唇をこらえ、クバルを見上げる。言葉にはしないが、去る本人よりもよほど感傷的に見える。 「ヤミール。ヘリオサとしての自分に誇りを持て。お前はダイハンに平穏をもたらした王だ」 「ダイハンに平穏をもたらしたのは私ではありません。クバル、あなたです」 「今の話じゃない。この二年、お前は力を尽くした」  クバルの支えがなければ挫折していました、とヤミールは謙遜する。だがブラッドもクバルもわかっている。彼がヘリオサという、ダイハンの中で最も尊い立場でありながら、他者に心からの敬意を示すことができること、傲ることなく戦士や民の声を広く聴くことができること。ゆえに屈強な体躯や脅威を捩じ伏せる腕力を持たずとも、ダイハンの民たちは少しずつヤミールをヘリオサとして認めた。 「これからも力を尽くします。私が、ダイハンを守っていきます」 「お前に足りないものは、あとは傲慢さくらいだと、ブラッドが言っていた」 「傲慢さ?」  ヤミールが首を傾けてブラッドを振り仰ぐ。ブラッドは短く唸り、それから顎先で目の前の男を指した。 「突然失踪して周囲に心配をかけても、しれっと戻ってきて平然としていられるくらい、図太くならないと駄目だ」 「……そうらしい」 「周囲に気を使いすぎるなってことだ。ヘマをやらかしても、動じず平然と尻拭いをさせるくらい、堂々としてろ。ちなみにその周囲には、当然俺も含まれるからな」 「そう……ですか。助言に感謝し善処します」  ヤミールは曖昧に頷き、再びクバルを見上げると、祈るように言った。 「先のヘリオサ・クバルが、長く健やかでありますように」  少し離れた場所から、カーンが出立を急かす。周囲に戦士や民たちが見守る中、クバルは艶やかな青毛の馬の鐙に足をかける。埃を孕んだ風が彼の長髪を踊らせている。 「クバル」  黒い馬に騎乗する美しい男を見上げ、彼の名前を呼ぶ。 「忘れるなよ」  クバルは一瞬であったが応えるように視線を絡め、馬首の向きを変えると馬を歩かせた。  言葉にしない想いを眼差しに込め、ブラッドは一歩後ずさる。  ブラッドもクバルも、「いつか」の約束をずっと覚えている。  カーンたちツチ族が土埃を上げて駆け出し、クバルも彼らの後に続いた。黒い影が徐々に小さくなっていくのを、ブラッドはヤミールと一緒に見つめた。  砂を擦る音がして、近くでクバルを見送っていたグランがそっと近づいてくる。ブラッドは彼女の表情を見て、唇を歪ませた。 「ブラッドフォード……」 「やめろやめろ。辛気臭い顔をするな」 「ですが、私はあなたに何と声をかけたらいいのか」  ヤミールが苦笑を漏らし、ブラッドから静かに一歩離れた。 「何も言わなくていいし、何もしなくていい。抱き締めて慰められでもしたら鳥肌が立つ」  感傷に浸るのは好きではないのだ。別れを悲嘆するくらいならば、クバルがいなくなったこれからのヘリオススについて考えたい。惜しみ、行き場のない激情をぶつけることは、昨夜したから十分だ。  ブラッドは先行してヘリオススへ足を向けた。少しして、普段より悄然とした足取りがついてくる。ふと肩越しに振り返ると、黒い影はすでに見えなくなっていた。

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