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鍛冶場

 日課である鍛練の最中、ブラッドはふと左手首に違和感を覚えた。次の瞬間、ラウラの女性らしからぬ豪腕を受け止めたファルカタは、ブラッドの手の中から弾かれて数歩先の大地に突き刺さる。  近くで見守っていたグランがすぐに寄ってきて、汗みずくのブラッドを覗き込んだ。 「先ほどから攻撃が怯んでいます。左手を痛めたのでは?」  指摘され、ブラッドは数秒前まで得物を握っていた左手に視線を落とす。太い血管の這う手の甲に、ぽたりと滴が落ちた。 「問題ない。続ける」  言い張ってブラッドは自身のファルカタを大地から抜いた。しかし先刻までとは違って、軋むような違和感が手首から腕の内側に生じ、ブラッドは眉間を寄せる。目敏く気づいたグランが、目の縁に力を込めた。 「ここ数日、無茶をしていますね。あなたの望み通りに鍛練の時間を増やしましたが、少し減らしましょう。ヤミールの稽古もつけているでしょう?」 「少しくらい無理したって平気だ。じきに慣れる」 「そうして手首を痛めたらしばらく剣は持てませんよ。少しの間、鍛練はお休みしましょう」  グランの言う通り、最近は鍛練に熱を入れていた。早く左手でも他の戦士たちと互角に渡り合えるようになりたくて、一日のうちグランやラウラと過ごす時間を増やした。そのうえ、いなくなったクバルの代わりにヤミールに稽古をつけるのはブラッドの役割になったため、ファルカタを握る時間は圧倒的に以前と比べて増えている。 「休んでる間に感覚が鈍っちまう」 「痛めたら、休まざるを得なくなりますよ」 「自分の限界はわかる。まだ大丈夫だ」 「ブラッドフォードが怪我したら、私たちの夢見が悪いんです」 「じゃあ、鍛練の時間を減らす。これでいいだろ」 「どうしても休みたくないというのなら、剣を軽いものに替えてください」  グランに退く気はないようだった。ラウラを一瞥すると凛々しい赤い瞳でこちらを見つめ、小さく頷いた。突然、自身が駄々を捏ねる子どものようになった気がして、ブラッドは嘆息を押し出す。グランの言うことは大抵正しい。 「そうしよう。あまり負荷がかからない得物に替える。休みはしない。ヤミールの稽古もある」 「わかりました。私もラウラも手加減します」 「手加減はするな」  早速新しいファルカタを打ってもらうことにし、ブラッドはグランとラウラとともにヘリオススの中へ戻った。  クバルがツチ族の長の娘婿として嫁ぐことになりヘリオススを去ってから、すでに十日あまり経過した。  かつてのヘリオサを快く送り出したものの、ヘリオスス中にはしばらく陰鬱な空気が流れていた。民や戦士の葬送を行う際でもそこまで暗くはならない。クバルひとりを犠牲に得た平穏――心の底で、皆が気に病んでいる。その責任が、ヤミールやブラッドにある訳ではない。責めるべき者は存在しない。  しかしクバルのいない現実に順応しなければならなかった。この喪失はずっと続くのだ。そもそもヘリオサとは新しい王に取って変わられ、死ぬものだ。今までそうだった。だから彼の不在をいつまでも嘆くのはおかしい。  ヘリオススはぎこちないながらもヘリオサ・ヤミールのもとで従来の活気を取り戻そうとしている。その中で、子どもたちだけは常に純粋だった。 「ブラッドフォード!」  大人たちの心情など、彼らの考慮する範疇ではない。無遠慮な彼らの特性は、大抵の場合においていい方向に作用する。広場で走り回っていた五人の子どもたちが足元に纏わりついてきて、ブラッドたちは立ち止まった。 「昨日グランに勝ったんだ! 俺がファルカタを払ったら、後ろに尻餅ついて降参したんだ」  ブラッドの腰の高さまでにしか届かない背丈の少年が、服の裾を握って精悍な顔を仰ぎ見る。 「よくやったな。グランも悔しがったんじゃないのか」 「うん、今は本調子じゃなかった、次やれば結果は違うって言ってた」 「それは大人げねえな」  ブラッドが一瞥するとグランは肩を竦める。 「次はグランに手加減してやれ。根に持っていじけちまう。そうなると俺が大変なんだ」 「わかった。ブラッドフォードも俺と戦ってよ。いつもグランばっかりで飽きたんだ」  同じような要求をされたことを、先日もグラン本人から聞いた。以降、ブラッドも子どもたちから何度か熱烈なお願いをされている。ひとりが要求すると、周囲の子どもたちも騒ぎ始めた。 「いいぞ。でも今日は駄目だ。明日相手をしてやる」 「明日は母さんの手伝いをしなきゃいけないんだ。今日相手してよ」 「じゃあ明後日だな」 「今日じゃなきゃ嫌だ。そんなに待てないよ」 「駄目だよ、フィーラ。ブラッドフォードは今、怪我をしてるんだ」  視線の高さに屈み込んだグランが穏やかな声音で諭した。 「今の状態でフィーラと戦ったらすぐに決着がついちゃうからね。つまらないだろ?」  フィーラはブラッドの服の裾からそっと手を放して俯く。上目に見上げ、唇を突き出した。 「わかった。我慢する」 「いい子だ。他のみんなも、明後日な」 「ブラッドフォード、絶対だよ。約束」 「ああ、約束」  不貞腐れた様子のフィーラと子どもたちと別れ、ブラッドたちは洞窟へと向かった。ひとつの洞穴を潜ると、石壁の通路は三人の湿った足音と、硬いものを打つ甲高い音が聞こえてくる。 「子どもたちはみな元気があり余っていますね」 「例えばあいつらと一日中一緒に過ごすとしたら、過労で倒れそうだ」 「子を持つと大変そうですね」 「だろうな。他人の子をたまに面倒見るくらいが調度いい」 「意外と面倒見いいですからね」 「意外とって何だ?」  グランが苦笑を向ける。鉄を打つ音は、徐々に大きくなっていく。 「初めは怖がられてましたからね。威圧感があるし」 「悪口か」 「とんでもない。でも面倒見悪くないから、今は私より人気じゃないですか」 「お前は厳しい師匠だからな。俺やラウラの方に来る」 「ブラッドフォードは、所帯を持って父親になったら子どもにデレデレになりそうですね」  ブラッドは歩みを進めながら表情を硬くした。それを見てグランは口を噤む。  所帯を持ったら。父親になったら。  あるいは、そうなることを望まれているのか。  グランの発言は失言ではない。しかし、湿った洞窟内の空気が酷く重く感じられる。  グランの口にした仮定は到底起こり得ないことだった。これまで一片たりとも考えたことがなかった。もし今も祖国のアトレイアにいて、王室の一員であったのならば、とうに貴族の娘を娶って将来の王になるべき子どもを得ていたのかもしれないが。  乾いた赤い大地に嫁ぎ、ひとりの男と出会った。汚辱と苦痛に満ちた道程だったが、幸福と呼べる日々を得た。ブラッドはそれで満足だった。一般に望まれるような家庭を築いて子どもを得ようとは、思ったことがない。  甲高い金属音がますます大きくなっていく。おかげで、ブラッドもグランも口を閉じたままでいられた。  水の湧き出る洞窟内は、すぐ近くで汲み入れることができるため、鍛冶場が設けられている。通路を抜けると、最奥の広い空間で、数人の男たちが作業をしていた。炎の熱気で、通路より乾燥しているのが肌でわかる。 「すみません、ひとつ仕事を頼みたいのですが」  グランが大声を出すと、一番入り口の近くにいた青年が作業の手を止めて近づいてきた。腰から下げた布に汚れた手を拭い、手の甲で額を拭うと黒い汚れがついた。見慣れない顔の男だった。  ブラッドが腰に差したファルカタを抜いて差し出すと、彼は両手で受け取った。 「これよりいくらか軽いものを作れるか」 「できるよ。十日くらいかかるけど」  青年はブラッドよりもいくらか若く見えた。二重幅が広く、ぱっちりとした大きい目のために童顔で、峻厳な顔つきのダイハン族に珍しく柔和な印象を受ける。長い黒髪は後ろで編んで背中に垂らしていた。 「訓練用に今だけ使うものだから、少しくらい脆くてもいい。三、四日でできるか」 「では三日で。あなたは……ブラッドフォード?」  少し低い位置から青年が窺うように見上げてくる。ブラッドを認識していないということは、もともとヘリオススの住人ではないようだ。 「ああ。お前は、よその村から移ってきた者か」 「そう。ガトと、申します。七日前に来たばかりで、存じ上げませんでした」 「敬語じゃなくていい。俺はヘリオサでも、アステレルラでもない」  諭すと、ガトは並びのいい白い歯を見せた。外で会った子どもたちを彷彿させるような、無邪気な笑顔だ。 「ならそうする、ブラッドフォード。今使っているのは合わない?」 「少し手首に負担がかかった。しばらくは軽いもので慣らしたい」 「わかった。なら、なるべく早く仕上げる」  頼む、ブラッドがそう声をかける前に、グランがにこやかに遮った。 「急がなくても大丈夫だ。この人は、何日か剣を身につけていない日があった方がいい」 「何かあったときに剣がないとどうする」 「そのときは私がお守りします」  微笑を浮かべながら強い語調で断言するグランを、ブラッドは憮然としながら無言で凝視した。お前はもう俺の従者じゃない、と呆れながら言うのも何度目か。  ガトは、どこか威圧感を滲ませるグランと、仏頂面のブラッドの間に視線を往復させ「三日後に一度様子を見に来て」と言った。グランがもう強張った表情を浮かべていないことにブラッドは安堵していた。

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