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寂しい*性描写

 天幕の入り口を持ち上げると、外気より幾分かは涼しい風が一瞬、ブラッドの首筋を吹きつけた。汗が引くように感じられたのはほんの短い間だけで、やはり熱気のこもった中に入るとじわりじわりと顔が濡れていく。  まだ日の高い時間からベッドに横になることには後ろめたさが感じられたが、だからといって、ヤミールにつけるべき剣の稽古を、数日は控えようと本人から丁重に断られてしまったブラッドが、このもて余した時間を費やすべき仕事は他にない。  憮然としながら毛皮の上に寝転がると、衣擦れの音も絶えて、天幕の中には静寂が満ちた。掌で額の汗を拭い、ふうと息を吐く。  ブラッドとクバル、ふたりの住み処――ここにはあまり、身を置いておきたくない。広く感じる空間が、ブラッドに喪失を突きつける。  だから、自らを忙しくさせていた。グラン、ラウラとの鍛練、ヤミールの稽古、彼の王としての役目の補助、戦士たちとの狩り、子どもたちの面倒。時には、ブラッドがやる必要のない水汲みまで。  故意に考えないようにしていた。しなければならないことが尽きると、不意にクバルの存在が頭を過るからだ。  心配しなくていい。平気だと、ブラッドを気遣わしげに見る者たちには、普段浮かべない笑みなども張りつけて断言した。  事実、晴れやかな気持ちで彼を送り出した。自分の気持ちに折り合いをつけて。機会がくれば会えることもあると信じている。  だからといって、寂しいという気持ちを騙すことはできない。  こもった熱を吐き出し、再び吸う。伏せた毛皮からは自分の体臭と、そしてかすかに、愛しい匂いを見つける。クバルが去ってから既に十数日も経過している。願望が錯覚を起こさせているのかもしれない。 「クソ……」  気分転換に遠乗りに行くにも、今グランに見つかってしまったら叱られる。この年になって「なぜ言うことを聞けないのか」と怒られたくない。子どもではないのだから。  ブラッドは左の掌で視界を覆った。光が閉ざされた狭い世界で、己を律しようと深く息を吸う。  二度と会えない訳じゃない。他部族へ渡ったが、同じ赤い大地に生きる、同盟を結んだ者同士だ。いつかは、きっと。もしかしたら、カーンや彼の妹が許せば帰ってくるかもしれない。   言い聞かせるが、確証はなかった。  昨夜もこの太陽に熱された大地のような匂いを見つけて、どうしようもなく胸を締めつけられた。硬く目を瞑り、朝を迎えたのだ。  ブラッドは視界を閉ざしたまま、仰向けになると、左手をぎこちなく動かした。そろそろと下肢に伸ばし、そのつもりはなかったが、指先で股間をなぞった。  随分と無沙汰だった。それこそクバルが去って以来、意図を持って触れていない。だから下半身は簡単に熱を持った。  空虚に襲われる。彼がいない現実を突きつけられる。それを避けるべく、他に自分がすべきことに没頭していた。故意に肉体を疲弊させ、夕食と沐浴を済ませた後はすぐに眠りについた。  だが、クバルを求める気持ちを誤魔化すのも、そろそろ限界だった。 「……っ」  荒い繊維の上から、盛り上がった部分をゆっくりと掌でなぞる。優しく、時には強く、緩急をつけて擦ると、久しく刺激を与えられていなかったそこはすぐに形を変える。  下着と下穿きを汚したくなくて、腰を浮かせて摺り下げると、しっかりと硬さを持ったペニスが飛び出た。指で直接竿を触ると、微弱ながらも久しぶりの快楽に、投げ出した脚が無意識に動く。 「はぁ……っ」  快楽に飢えていた身体は、小さな刺激だけで喜んでいる。指の関節でこりこりと竿を弄りながら、ブラッドは伏せた瞼の裏に密かに思い浮かべる。 「ん、……クバル」  彼の匂い。手の熱さ。触れた肌。声も。こんなにも長く離れたことはなかったが、容易に彼の記憶を呼び起こせる。まるで、すぐ隣にいるかのように鮮明に。 「……っ、う」  滴を浮かべる先端を指の腹で撫で、そして強い力で竿を握った。痛いくらいの握力で扱かれるのが、足の裏がつりそうになるくらいに気持ちよくて、辛いけれど嫌いではなかった。裏筋を擦るようにして、大振りに扱く。  自分でも、限界が異様に近いことは自覚していた。左手の中のペニスは最大まで膨張して、太い幹はどくどくと脈打ち解放を待ちわびている。  けれど、いつかクバルの面影も薄れてしまうのではないか。触れる肌の熱さや匂いも思い出すことができなくなるのではないか。想像すると、快感の中に恐怖という異物が入り交じる。射精した後に急激に熱が引いていくのは恐ろしい。絶頂した後、クバルの太い腕が抱き締めてくれることはない。 「っあ、……ぁ、クバ、ル……ッ」  彼が今、どこにいるのかはわからない。ツチ族は乾いた赤い大地を放浪し続ける。けれどどこにいても、自分を恋しく思ってくれているといい。時に、今のブラッドのように自分を求めてくれたらいい。  自身を慰める手の動きは激しくなる。全身にじっとりと掻いた汗の不快さも気に留まらず、荒い呼吸を圧し殺すこともしない。 「クバル、ッ……出る、出る……っ!」  あとほんの一歩で極める、欲を解放しようとした時――茹だって鈍くなった感覚が、かすかな異音を捉えた。 「ブラッドフォード、いる?」  遮蔽物越しに聞こえた、硬い土を踏む音と、若い男の声。  昇り詰めた快楽が、急激に冷えた。 「――っ」  一瞬、怒りさえ湧いた。陶酔を取り上げられ突然現実に呼び戻された。伏せていた瞼を開けると、汗が目元に滲みた。ブラッドの隣に、クバルの存在はない。 「入ってもいい?」  天幕の向こうから先刻知り合ったばかりの青年の声がする。少し首を持ち上げると、入り口に影が見えた。 「少し待て」  苛立ちと虚無感を押さえつけながら、ブラッドは素早く下着と下穿きを上げた。濡れた下肢に布が張りつくのが不快で、眉を顰めた。射精を取り上げられていまだ勃起したままの股間を隠すように毛皮を引き寄せるが、暑くて仕方ない。汗を掻いているのに掛布をしているなんて不自然だ。  先走りに汚れた左手を毛皮の下に押し込みながら入り口に声をかけると、ガトの無邪気な顔が現れた。 「昼寝してたの?」 「……そんなところだ」 「すごい汗掻いてるよ。大丈夫?」  失礼します、と呟いてガトはゆっくりと中に入ってきた。麻袋をひとつ持っている。中身の音かカチャカチャ鳴らしながらベッドの傍まで来るので、ブラッドが備え付けの岩の椅子を顎で差すと、ガトは素直に腰かけた。距離を縮めることに躊躇のない男だ。ブラッドは「眠ってると暑くなるだろ」と右手の先で顔の汗を払った。 「俺が起こしちゃった?」 「別にいい。それより何の用だ」  なるべく不機嫌に聞こえないよう努めながらガトに尋ねる。幸いガトは何に気づいた風もなく、先刻依頼したファルカタについて話を始めた。 「さっき確認しておくのを忘れたんだ。子ども用に作ったものが何種類かあるんだけど、持ってみてくれる?」  携えた布袋の中身はファルカタらしい。ガトは屈みながら袋の中から通常より小振りな剣を取り出し、ひとつをブラッドに差し出した。 「どのくらいの重さと、あとどの形の持ち手が使いやすいか。それに近いものを打つから」 「鍛練用だ。そこら辺は任せる」 「鍛練用だからだよ。自分にちゃんと合ったものがいいでしょ」  ブラッドは素直にひと振りを受け取り、ベッドに置いて左手で鞘から抜いた。子ども用だから非常に軽い。かえって扱いづらいくらいだ。 「重量はもっとあった方がいいな。逆に怪我しちまいそうだ」 「毎日使うならその方がいいよね。こっちは?」 「もう少し重くてもいい」 「手を痛めるよ。グランに怒られるんじゃない?」  会って数分ばかり会話した中で、ガトはブラッドとグランの関係性を見抜いてしまったらしい。下唇を突き出して上目に見ると、ガトは悪戯っぽく笑った。 「あいつは過保護すぎるんだ」 「あなたのお姉さん?」 「そう見えるか? もとは俺の従者だ。アトレイアから連れてきた」 「あの人の言う通りにした方がいいと思うよ」  神妙な顔つきで言うものだから、ブラッドは思わず唇の隙間から薄く息を吹き出した。 「みたいだな。……ああ、このくらいがいい。これに幅と長さを足してくれ」 「わかった。俺に頼んでおいて正解だよ、ブラッドフォード。俺は腕がいいから」 「腕がいいかどうかは、ファルカタを受け取ってから評価してやる」 「九歳の時から父親の手伝いでやってたんだ。父さんが死んでからは、俺が村で一番」  ヘリオススにももともと鍛冶職人はいるが、今は数が少なくみな年配だ。いい腕を持つ若い男は少ない。若い男はほとんどが戦士だ。 「じゃあお前は貴重な人材だ」 「そう。仕事が済んだらブラッドフォードにお願いがあるんだ」  持参した子ども用の剣を麻袋にしまいながら、ガトはブラッドを上目に見る。促すと、彼は少し言いづらそうにしてから話を続けた。 「七日間だけでいいから、村に帰りたい。ヘリオサに頼んでほしい」 「家族がいるのか?」 「恋人を残してきたんだ。会いに戻りたい」 「ヘリオススに連れてくればいい」 「恋人の母親が病気で、離れられない」  遠くにいる恋人に会いたい。至極当たり前の、ささやかな願いだった。その要求を、駄目だと突っぱねることはブラッドにはできない。 「わかった。ヘリオサに言わなくても、俺が許可を出す」 「ありがとう。本当に嬉しい。本当は村に残りたかったんだ。けど、鍛冶ができる若い男が必要だって聞いて」 「手を抜いて早く済ませたりするなよ」 「そんなことしないよ。ブラッドフォードから頼まれた仕事だ」  子どものように無邪気に顔を綻ばせるガトから、ブラッドはふと目を逸らした。自分で望んでもいない感情が胸に湧く。  ガトが憎いのではない。羨んでいるのではない。けれど無性にどうしてか醜い感情が生まれるのだ。  どうして自分には許されないのか。 「ブラッドフォードはヘリオサ・クバルと結婚してたんだよね。政略結婚っていうの?」 「ん? まあ……そうだな。二年前はな」  クバルがヘリオススを去って以来、ブラッドに彼の話を振ってきたのはガトが初めてだった。ヤミールやグランさえ、あの日以来控えているようだった。  自分を惨めだと感じたことはない。自分たちで下した決断だからだ。ただ、やるせなく思うだけだ。 「今は違う?」 「あいつは、今は夫じゃない。……特別だ」  きっと生涯で唯一の特別だ。戦友、恋人、伴侶。どの言葉で言い表したらいいだろう。今は遠く離れた場所にいても、ずっと互いの存在を想い続ける。 「そして……ツチ族の首領の娘の夫だ」  ダイハンの平穏が続くための選択だった。正しい決断をした。今は霧が晴れなくても、きっと時がブラッドの空虚を解決すると信じている。 「寂しい?」  ガトの囁きがベッドの上に落ちる。心情を的確に言い当てられた瞬間だった。  自然と下ろしていた視線を上げると、眉尻を下げたガトが微笑している。 「俺も寂しい。何日も恋人に会えてないから……」  温かい感触が毛皮越しに膝を撫でた。赤い瞳の中に映る優しさとその手つきは不釣り合いであるように感じて、ブラッドの背筋は強張る。 「クバルを想ってひとりでしてたんでしょ?」  ガトが身を乗り出しブラッドのベッドに手をつく。蠢く指先が太腿の際どい箇所をなぞり、ブラッドは息を飲んだ。 「おい……」 「俺が邪魔しちゃったのかな。続き、していいよ」 「ふざけるなよ。こういう冗談は好きじゃねえ」 「ふざけてないよ。ああ、それともふたりでする? その方が気持ちいいよね」  淫靡さを孕んだ声が耳元を擽る。唐突に、落ち着きかけていた勃起を毛皮越しにぐっと掴まれ、怒りで首筋が引き攣る感覚がした。 「いい加減にしろ!」  突き飛ばされたガトはよろめき、冷たい椅子に膝を打つ。上げたガトの顔はブラッド以上に困惑していて、それにも腹が立った。 「出ていけ」  間髪置かず拒絶の言葉を叩き込むと、ガトは一言「わかった」とだけ呟いて、持ってきた麻袋を携えてブラッドの天幕を素早く立ち去った。  憤りと羞恥で顔と首筋が酷く熱い。不愉快な心情とは裏腹に股間の熱はいまだ冷めてはいなくて、ブラッドは唸った。続きをする気にもなれなくて、ベッドに勢いよく身を沈めた。クバルを恋しいを思う気持ちを足蹴にされたようで、怒りが全身を満たしていた。

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