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お人好し

 肉を裂いた感触はなかった。血飛沫が頬に飛び散る訳でもなかった。  ブラッドのファルカタは、男の耳のすぐ真横――赤い大地に突き刺さっていた。 「……ッ!?」  瞠目して見上げるユーホに、ブラッドは嗄れた声を落とす。 「今お前の首を刎ねた。勝敗はついた、ユーホ」  荒い息遣いがふたりの男の間にあった。言葉の意味を理解したユーホは、額に青筋を浮き上がらせて唇を裂いた。 「何だと! 馬鹿にしやがって」 「だが俺は傷を負った。当然、お前も無事では済まない」  ブラッドは大地を抉ったファルカタを抜き、今度はユーホの身体の一部に突き刺した。男が叫ぶ。確かに絶叫だったが、命の危機に瀕して上げたものではない。 「ヤミールがヘリオサだ。ヘリオサの命に従え。理解できるか」  ユーホの手の甲に刺さったファルカタを、大地に縫いつけるようにさらに深く突き刺す。鋭い刃が肉を割り裂き、赤い液体がミルクのように溢れてくる。 「っぐ、あ゛、あぁ」 「決闘を経ても納得しないのなら、次は脳天を突き刺す」  自身の鼻先から、砂と汗と血が混じった滴が眼下へ落ちる。ユーホが呻きながら小刻みに顎を引いたのを確認したブラッドは、濡れた顔を左の掌で拭い、下履きに擦り付けて立ち上がった。音が止んだ人々の合間を、濃厚な血の臭いが風とともに駆けていく。  決着を理解した観衆が沸く。「なぜ殺さない」「ヘリオサに背いた男だ、生かしておけない」と口々に訴える中、ブラッドはファルカタを抜きながら手近な王の腹心を呼び寄せ、 「手当てしてやれ」  と言い残し周縁の外へ足を向けた。  しかし、腕を捕まれ、振り返るとヤミールが険しい表情で睨んでいた。 「まずはブラッドフォードに治療が必要です」  右の掌に生じた割れ目から肉が覗いている。境目に熱した鋼を突き込まれたように熱く、どくどくと脈打っている。 「……そうかもな」  血が止まないことを意識した瞬間、視界が暗く翳った。  反対の腕を強く掴まれたと思ったら、隣に大柄な女が立っていた。唇を硬く引き結んで無言で足を進める彼女に支えられながら、半ば強制的に歩かされる。いまだ興奮している外野が、グランの圧力を避けるように道をあけた。 「あなたが右手の指を失って戻ってきた時のことを思い出して背筋が凍りました」 「今より少し手が短くなったところで、何も問題はない」 「長さの話をしてるんじゃないんですよ。今の戦いは、運がよかったとしか言えません。力では完全にユーホに劣っていました」 「勝ったのは俺だ」  戦士や民たちの輪を抜けたところで、大地から突き出た手頃な岩に腰掛けさせられた。ラウラが医者を呼びに走ったらしく、連れて戻るまで座って休んでいろということだった。 「ブラッドフォード」  跪くようにして足元に屈んだヤミールが、血と汗と埃で汚れたブラッドの顔を仰ぎ見た。 「……感謝します」  言葉にそぐわない、険しい表情をしている。 「代理をすると言ったのは俺だ」 「こうなる前に、対処すべきだった」 「お前が悪い訳じゃねえよ、ヘリオサ・ヤミール。俺ももっと上手く立ち回れたはずだ」 「いえ……ユーホの言う通り、クバルがツチ族とともに行くことになったのは、私が不甲斐ないためです」 「おい」  俯いたヤミールの表情はちょうど影が差してブラッドには読み取れない。必要などないのに、王としての自分を責めているのだ。 「クバルの件は今さら考えても仕方ない。それに、あれが最善の方法だった。あれ以外に選ぶべき道はなかった。その結果が今のダイハンの平穏だ」  肉が裂け血に塗れた手は、口にした内容とは矛盾する光景だった。平穏だ、ブラッドは肩を竦めた。 「これは平和の副作用みたいなもんだ。勘定にも入らない、下らない喧嘩だ」 「ユーホと同じことを考える者が出なければいいですが」  グランが歪めた唇を親指と人差し指で弄びながら呟いた。想像もしなくない最悪の事態だ。 「何度もあってたまるか。手が足りなくなる」  決闘などそう気軽に受けられるものではない。今回の一回きりで十分だ。他にヤミールのために危険を冒し、相手を打ち負かす自信がある者がいるならば話は別だ。例えば――ブラッドは決して彼に決闘などさせたくなかったが、クバルはそうだった。 「そもそも、大多数の戦士や民たちはヤミールをヘリオサとして認めている。ユーホと同じように考える愚か者がいたとしても、今のである程度の牽制にはなった」 「ええ……杞憂だといいのですが」  ヤミールは斜め下に視線を落としてひとりごちる。立ち上がらせようと手を伸ばした時、ラウラが医者を連れて戻ってきて、所在なさげな手は膝の上に置かざるを得なくなった。  傷口を酒で消毒し、何針か塗った後に薬草から作った軟膏を塗りたくり包帯を巻かれる。処置が終わるとすでに日は傾きかけ、夕餉の時間も近かった。少しの間休もうと腰を上げた時、近づく足音の主がブラッドの名を呼んだ。 「使った感じはどう」  眉尻を下げて立ち尽くす彼の顔を見ると、首筋が強張る感覚がした。ブラッドはグランたちに先に行くよう促し、腰に携えた新しいファルカタの柄を左手で包み込んだ。 「礼を言う。軽くて振りやすい」 「よかった」 「殺し合いには向かないがな」 「そのつもりで作った訳じゃないからね」  口もとに苦笑を浮かべながらガトが距離を詰める。彼が足を止めて近づくことをやめて「ごめん」と口にしたことで、自身が無意識に身構えていることを初めて知った。 「この前は強引に迫って、悪かった。からかった訳じゃないんだ」  ブラッドに両の掌を見せながら、ガトは恐る恐る言った。口にへばりついた舌を無理に動かしている彼を見て、肩の強張りが不本意にも解けていく。 「とても無神経なことをした。君の気持ちを気にもしないで。慰めになるかと思ったんだ」 「……」  元来ダイハン族は、ブラッドのような北の人間よりも奔放な性質であることは承知している。ガトの言う通り、彼に悪意や邪な気持ちがあった訳ではないことは、彼の声を聞いていればわかった。 「二度と同じことはしない。だから、嫌いにならないで」 「別に嫌いにはなってねえよ。腹が立っただけだ」 「今も怒ってる?」 「このファルカタで相殺にする」  ガトが案外に厚い肩から力を抜いて口もとを緩めた。「よかった………」と命拾いでもしたように肺の空気を押し出す様子が大仰に思えて、ブラッドは薄く息を吐き出した。素直に感情が表に出る男だ。 「ブラッドフォードのこと、友達だと思っててもいい?」  主人に叱られた犬が、機嫌を窺って上目に仰いで尻尾を振っている。警戒心を解かざるを得なかった。  アトレイア王国からダイハンへ嫁いできてからというもの、果たして友という存在がいただろうかと思案する。グランが最もそれに近いが、彼女はかつての従者であり、そして今は姉のようなものだ。 「それはあんまりにも虫が良すぎないか?」 「図々しすぎる?」  白い歯を覗かせておどけるガトが、手に持っていた鞘を差し出す。健在の左手で受け取りながらブラッドが「考えておく」と返すと、人懐こい男は薄れた緊張感を感じ取って笑った。 「俺、明日から自分の村に顔を出しに行く。ヘリオススに戻ってきた頃に答えを聞かせて」 「その何日かで答えを出せるかわからん」 「深く考えないで、許すって言えばいいよ」 「しっかり査定してやるから、待ってろ」  包帯が巻かれた先の右の親指で彼の顔を差して言い含め、背を向ける。数秒後駆けてくる足音が聞こえてすぐ、「晩飯、俺も一緒に行っていい?」と呑気に抜かしていた。

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