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ヘリオサの資格

 赤い大地の遥か彼方の地平線から、太陽が頭を出し始めたばかりの頃だ。乾いた土地に住む生き物たちはまだ眠りについているかようやく目を覚ましたばかりで、一帯は静寂を帯びていた。ヘリオススもまた、静けさに包まれていた。早朝の狩りに出る戦士たちすら、まだ自身の住みかで夢を見ている。  何となく目が覚めたブラッドは羽織りを肩にかけて天幕の外に出た。薄暗く澄みきった空気の中に、細く日が射し込んでいる。起きて活動している者はなく、一歩足を進めれば砂が擦れる音だけが大きく響く。  まだ微睡んでいる者たちを起こさぬよう彼らの住みかを通り過ぎ、ヘリオススの東まで歩いた。  どこまで辿っても赤い荒野だ。突き出た巨大な岩が点在する以外、ブラッドの目には何も見えない。あるいは視力が優れたダイハンの戦士であれば、何か獣や馬が見えるのかもしれないが。  この赤い大地のどこかに、クバルがいる。ツチ族とともに。  どこを放浪しているのかは知らない。彼らは気まぐれに大地を移動する民族だ。もしかしたら付近に野営しているのかもしれないし、馬で何日も駆けなければ辿り着かないような遠くの地へ行ったのかもしれない。  ただ、無事でいてほしい。健やかでいてほしい。自惚れなどではなく、きっとクバルも同じく思っているだろう。ブラッドはもうすでに怪我を負ってしまったが。右手の包帯はまだ取れず、引き連れるような痛みも引かない。  しばらく何もない地平線を眺めていた。冷えた大地を太陽が熱し始めたのを感じたブラッドは踵を返した。そして自らの住みかに戻る途中、厩舎としている天幕の影に、人の気配を感じた。  荒い息遣いと、砂が擦れる音が聞こえる。そっと近づいて覗くと、華奢な青年が剣を振るっていた。  普段は背中へ流している艶やかな黒髪を結い上げ、ファルカタを振り下ろしている。 「脇が甘いぞ」  天幕の支柱に寄りかかりながら指摘すると、ヤミールは弾かれたようにブラッドを見た。剣を取り落とさなかったのは上出来だ。 「ブラッドフォード。こんなに早くにここで何を?」 「お前もだろ。俺は目が覚めちまったから、散歩だ」  感心しながら近づくと、ヤミールはファルカタを腰の鞘に収め、こめかみを流れる汗を拭った。晒された首筋や胸に浮き出た玉が、低い位置から差す陽光に照らされて光っている。 「いつから早朝の鍛練を始めた?」 「まだ数日です。……いえ、ブラッドフォードとの鍛練が物足りない訳ではありません」 「別に疑ってない。むしろ、やるなら付き合うから呼べばいい」  まだ胸で呼吸を繰り返しながら、ヤミールは汗で束になった長い睫毛を瞬かせた。まるで泣いているみたいに見える。 「これ以上あなたの手を煩わせる訳にはいきません」 「確かに俺は左手しかないが、お前の訓練を面倒に思ったことはねえぞ」  冗談めかして言うと、青年は物言いたげに薄い唇を歪める。彼の視線は、包帯の巻かれた自身の右手にある。 「私は、ヘリオサとしてもっと強くあらねばならない」 「何を言ってる。お前は十分に強い。立派にダイハンを守ってる」 「ブラッドフォードに守ってもらってばかりです。自分の身を自分で守れもしないヘリオサなんて。カミールに顔向けできません」  目の前の若い王は、先日の代理決闘をいまだに気に病んでいるようだった。決闘が始まる前の、ユーホの罵倒を思い出す。無力で無様な王。  言葉は、呪いだ。耳に纏わりついて消えない。ブラッドは、左手で額を掻き上げて息を吐いた。 「お前が他の戦士のように剣や力に秀でているから、ヘリオサに選んだ訳じゃないんだぞ」 「理解しています」 「しかも、ユーホは掟を破って決闘を始めた。あんな男の言葉を真に受けるな」 「ですが、彼の言葉は事実でした。それともブラッドフォードは、ヘリオサには強さなど必要ないとお思いですか」  ヤミールの瞳が、暗く輝いていた。泥のように深く沈んだ赤色が、ブラッドを問うている。  ダイハンを統治してきた歴代のヘリオサが持ち合わせていた膂力や、恵まれた体格や、武器を扱う技術や、豪胆さといった要素を、戦士や民は敬い畏怖し従ってきた。  そのいずれも、ヤミールは備えていない。彼を王として認めた戦士たちもブラッドも、それで構わないと思っていた。彼特有の誠実さや思慮深さ、自分の非力を認めることができる勇敢さがあれば十分だった。 「必要ない訳じゃない。ただ、ヤミール。お前にはそれを補うだけの他の要素がある」 「けれど、ブラッドフォードも一度は考えたことがありませんか。王が、私ではなくクバルだったらと」  無遠慮に見上げる視線に、ブラッドは一瞬気圧された。 「クバルがヘリオサだったら、こんなことにはなっていなかったのでは、と」  そして、たじろいだことを酷く嫌悪し、気づかれないようそっと息を飲んだ。 「下らないことを考えるな」 「私は時折考えるのです。クバルならば、戦士に侮られることもなかった。クバルならば、ツチ族に対して優位に交渉できていた。クバルならば、もっと賢く立ち回れていた」 「……ヤミール」  砂利を味わってしまったような、苦々しい声が出た。案外に低く聞こえたようで、若い王は口を噤んで顔を背けた。 「すみません。こんなこと、あなたに聞かせたくなかった」 「……お前はクバルにはなれない。他の誰も、俺もだ」  クバルになる必要もない。前の王と比べるのは無意味なことだ。そう諭そうとしたが、彼に説く資格がないことに気づき、ブラッドは言葉を嚥下した。説得力のない言葉をかけても虚言になるだけだ。 「クバルも間違いを犯したことはある。どれだけ強くても、クバルでも、決闘に負けた。可能性の話をしても仕方ない」 「ええ……わかっています」  ただひとつ言えるのは、クバルも完璧ではなかったということ。でなければ、シュオンと偽るブラッドに騙られ、戦を起こし、――裏切り者であるブラッドを再び受け入れる真似はしなかった。正しく賢い王であれば、ブラッドを処断すべきだった。それができなかったから、ユリアーンの造反を引き起こした。  だが、彼の過ちのおかげで、ブラッドは今ここにいることができる。  ヤミールがわずかに顔を上げて、食い絞めていた唇を開いた。 「いずれにしても私は、自分を殺そうとする者から自分を守れるくらいに、強くならなければならないのです」  ヘリオサの決意に水を差そうという気はなかった。だからブラッドは、ファルカタを抜いて鍛練を再開する彼から黙って距離を取り、踵を返した。ベッドで二度寝ができるかどうか、わからなかった。  その日の夜、ツチ族からの使者がヘリオススへ到着した。  ブラッドや腹心の戦士たちは王の家に呼び集められ、ツチ族の男ひとりと相対するように座っていた。張り詰めた空気の中、使者の口から伝令の内容が伝えられた。 「ダイハン族のクバルが崖下に滑落した」  淡々とした様子の伝令に、ブラッドは間髪置かず食いついた。 「無事なのか」  身を乗り出したブラッドに一瞥をくれたツチ族の男は、曖昧に頷き、ゆっくりと口を開く。 「生きている。だが、意識がない」  その言葉を噛み砕くのに、やや時間がかかった。呆然と、ダイハン族の面々に向き直った伝令の男を見つめる。  ほんの一月近く前に別れを言ったばかりで、今朝、無事を願ったばかりだった。  なぜ、と問いただそうとした。その前に、ヘリオサが静かに口を開いた。 「落ちたのなら、怪我は」 「全身を強く打ち、片方の足の骨を折った」 「彼はちゃんと手当てを受けられているのか」 「当然だ。彼はツチ族の男になったのだから、他の者と同じ権利がある」  肺に澱んでいた息を吐き出す。ブラッドはそこで初めて、自分が呼吸を止めていたことに気づいた。  渇いた口の中を唾液で湿らせ、ようやく口を開く。 「どうして崖から落ちるようなことになった。あいつが、そんな馬鹿をするとは思えない」 「それは俺も聞いていない。カーンの命で、ヘリオススへ伝えるよう、すぐに発った。一日半、馬を走らせてここへ来た」  狩りで獣を追っている最中だったのだろうか。馬が足元に気づかず、体勢を崩したか。クバルらしくない失態だ。  理由が何であれ、命があって、治療を受けているのなら一安心だ。意識がないことだけが気がかりだ。  ブラッドが「ヘリオサ」と呼ぶと、ヤミールは燭台の炎に照らされた端整な顔立ちに、少しの緊張を滲ませていた。 「この男とともにクバルのもとへ行く許可をくれ」 「もちろんです。数名で、ツチ族の野営地へ向かう。状況を把握しなければ」  続けて、「私も行く」と張りのある声で告げる。ブラッドが反駁の声を上げる前に、他の腹心の戦士が同意を示した。 「ユーホの件もある。俺たちのうち何人かいなくなると、ヘリオサの守りが薄くなる。かえって、ヘリオススを不在にして一緒にツチ族のもとへ向かった方がいい」  他の戦士たちが唸りながら顎を引く。別のひとりが「危険じゃないか」と声を上げた。だがその理由を語らなかった。言葉を濁らせる理由を理解し、ヤミールはツチ族の使者を下がらせ、客用の天幕へ案内させた。  男が立ち去ると、異を唱えた戦士が口火を切った。燭台の火が不安定に揺れていた。 「ヘリオサを連れて行くのは危険だ。万が一……俺たちを誘き寄せる罠という可能性もある」  「要求こそ尊大で傲慢だったかもれしれないが、あれでいてカーンは信用できる男に見える。同盟を破り我々を討とうという卑怯な真似はしないだろう」    ヤミールは戦士たちの前でそう断言した。真実のほどは知らないが、クバルを連れ去ったあの男が憎いとはいえ、ブラッドの目にも同様に映っていた。 「それに、私自身の目でクバルの無事を確かめたい」  ヤミールの表情は真剣そのものだった。戦士たちはひとりも異論を唱えず、翌朝に日が昇ってからヤミール、ブラッド、他戦士五名がヘリオススを発つことになった。  ひとまずは生きている。それだけが救いだ。実際に会って無事を確かめることができる。そう思わなければならないのに、内臓が掻き回されているような不快感で一晩中眠れなかった。目を閉じても頭が冴えて、手足の先が落ち着かない気がした。だから、まずクバルに会ったら何を言ってやろうか考えているうちに、朝日が昇り始めていた。

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