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知らない男

 翌朝、一行はヘリオススを発った。他の戦士や民たちには、クバルが負傷したという真実は告げず、友好の証として招かれたためだと説明した。  使者の男の先導でツチ族の野営地に到着したのは、翌日の夕刻だった。  ヘリオススから随分と離れた東まで来ていた。テントを張って一夜を過ごしたが、よく眠れなかった。時折意識が遠退くが、他人の息遣いや衣擦れの些細な音で覚醒してしまい、休息と呼べる休息を取っていない。 「ブラッドフォード。顔色が悪い」  ツチ族の天幕が見えて馬の速度を落とし始めた頃、隣で手綱を握っていた戦士のひとりが密やかに囁いた。 「お前は元から白いが、今日は見たことのない色をしている」 「ああ、あまり眠れなかった」 「お前が倒れたら、ヘリオサまで倒れる」 「心配ない。クバルの顔を見て嫌味のひとつでも言ったら休ませてもらう」  左手をひらひらと振って大丈夫だと示すと、戦士は承知したようで頷いた。  正直なところ、二晩眠れなかった分の睡魔はまだ訪れない。不安と緊張で精神が高ぶっているからだろうが、クバルの安否を確かめるまでは倒れることもできなさそうだ。  群れの中に入ると、首から胸にかけて月と鳥の模様の刺青を入れた男が出迎えた。族長の息子・カーンだ。  馬を下りるや否や、ブラッドはカーンを問いただした。 「クバルの容態は」  挨拶もそこそこに激しい語調で詰め寄ったブラッドに、カーンは一瞬眉を顰めたものの、琥珀色の瞳で強く見返した。 「意識は回復した」  その一言で、ほんのわずかに胸が軽くなる。  ヘリオススを発ってからの一日半はたえがたい時間だった。いつになったら到着するのか、クバルの様子はどうななのか――それに、単純に早く顔を見たいと急く気持ちも。  ヤミールが進み出て「まずは案内していただけるか」と落ち着いた様子で問うた。 「クバルのもとへ。こっちだ」  先導するカーンの後ろをついて行く。  群れはヘリオススよりもわずかに小規模で、家族の寝るテントや戦士たちの天幕が張られている。確かツチ族は二百名程度の単位で行動すると聞いた。ここはカーンが直接指揮する大隊なのだろう。  カーンとともに歩く道中、ツチ族の女や戦士たちは露骨な敵意こそ見せなかったものの、やはり最近まで敵対していた部族が群れに足を踏み入れたのだ、歓迎する素振りはなく、遠くから鋭い黄色の瞳で見つめていた。 「目を覚ましたのは今朝だ。右足を骨折していて今は動けない。全身を強く打っていて、打撲や傷もある」  歩きながらカーンはクバルの容態を説明してくれた。足を進めながら、ブラッドは緊張に満たされていた手足の先から力が抜けていくように思えた。  ヤミールも、ほっとしたようにブラッドに目配せをして、再びカーンへ端整な顔を向けた。 「滑落したと聞いた」 「男たちに狩りに行かせていた時だ。報告を受けて俺も駆けつけたが、馬が獲物に驚いて体勢を崩し、尾根から転げ落ちたそうだ」 「クバルがそんなヘマをするとは思えねえがな」  口を挟んだブラッドの刺々しい語調に、カーンは冷たい視線を寄越す。 「あいつが自分の馬を制御できないはずがない」 「事故じゃないと言いたいのか」  ブラッドは無言で肯定した。寝不足もあって少し苛立っていた。腑に落ちない表情のブラッドに、カーンは淡々と告げる。 「かつての偉大なヘリオサを過信する気持ちはわかる。だが、ずっと同じ場所に留まっているダイハン族の馬は、ここ一帯の峻厳な地形に慣れていない」  馬だけでなく乗り手もそうだ、とカーンはゆっくりと唇を動かして言い聞かせた。 「落ちた者本人の責任だ。乾いた赤い大地ではみなそうだ。北のアトレイアの考え方は違うのかもしれないが」  カーンがひとつの大きな天幕の前で立ち止まった。彼に不快感を与える言葉をもうひとつくらい言い返してやりたかったが、非生産的な会話を終わらせるしかなかった。 「とはいえ、固定して安静にする必要がある。しばらくは移動せずここに留まる予定だ」  ツチ族の民の居住区と思われる小さなテントが張られた区画からは離れた場所にあった。月と鳥の模様があしらわれた黒い旗が天幕と天幕の間に突き刺さっている。  剣呑な空気の中、ヤミールが穏やかに口を開く。 「感謝する。どうか彼のことを頼む」 「それはもちろんだ、ヘリオサ・ヤミール。だが――」  入り口の垂れ幕にも、旗と同様の模様が縫い込まれていた。やや距離を取って左右に立つ天幕にも、同じ装飾があった。 「彼は今、錯乱している」  肩越しに振り返ったカーンを、ブラッドは鋭い緑色の瞳で見つめ返した。  ブラッドやヤミールが再び口を開く前に、カーンは垂れ幕に手をかけた。 「彼と話をしてくれ」  短く言い残してカーンは先に入った。  ヤミールと顔を見合わせて彼に続いて中に入ると、薬草の独特な匂いが鼻腔を満たした。  地面の上には獣の皮が敷き詰められており、側面にはチェストや机もあった。ダイハンでは見ることのなかった調度品だ。入り口と反対側の壁際にソファのような背もたれのあるベッドがあって、彼はその上で上体を起こしていた。  来客に気づいた彼は、赤い目でこちらを見た。 「……クバル」  彼を前にして彼の名前を呼ぶなんて、まるで夢にでもいるような気がした。クバルに別れを告げてから、どこか遠くにいる彼の名前を呼んでいた。けれど今、声にした名前は、実際に彼の耳に届いている。  掠れた小さな声を聞いて、クバルはブラッドを見た。  喉に熱いものがせりあがってくる。どれだけ会いたかったか。何度お前の顔を瞼の裏に見たか。爆発しそうな感情を、ブラッドはぐっと押さえつける。  剥き出しの上体には、腹や腕などにいくつも擦り傷や切創があり、青黒く変色した打撲痕もあった。骨折したという脚は、掛布の下になっている。  錯乱しているとカーンは言ったが、怪我こそしているものの、彼に取り乱している様子はなかった。普通すぎるくらいに、傷の増えた彼の力強く美しい顔からは、混乱や不安といった感情は読み取れない。ブラッドは少し、足の裏がぴんと張り詰めるような感覚を覚えた。  カーンに視線で促され、ヤミールとともにクバルの傍らへ寄った。どうしてだが足が縺れそうになった。ベッドの側には医者と思われる男と、女――少女から女へなったばかりという年頃の女が侍っていた。  彼らが場所をあけると、ヤミールは膝をついてクバルの手を握った。 「……意識が戻って安心しました」 「ヤミール」  クバルの声はただ青年の名を呼んだだけだったが、かすかな安堵が表れていた。彼の表情も。  ブラッドも、ヤミールのように側に寄り添って、クバルの手を握って、そして彼の肩を首を抱き締めてやりたかった。久々に見る愛しい男に触れ、彼の無事を心から喜びたかった。  だが、何かがブラッドに躊躇を抱かせた。  それが何なのか、ブラッドには見当がつかなかった。  だから、立ち竦んだまま、クバルをじっと見下ろして恐る恐る口を開いた。 「お前が生きていてよかった」  心から思った。また会えた。会えると信じていた。  今すぐに抱き締めたい。強く腕に抱いて、顔中に口づけをしてやりたい。  けれど、クバルはブラッドと同じようには思っていない。そのことを、彼がブラッドを一瞥する視線の素っ気なさで悟ってしまった。  この時、日に焼けた項が石のように強張って、後ずさりたいような衝動に駆られた。とても、場違いなところにいるように感じた。  つい数秒前までは、彼に会えたことに歓喜し、手足の衝動を押さえつけていたというのに。 「……クバル?」  異様さに気づいたヤミールの声は不安気に揺れた。  そしてクバルは、今度はしっかりとブラッドを――怪訝な眼差しで見つめ、共通語で言ったのだ。 「お前は……アトレイアの人間か」  初めて出会った頃を彷彿とさせる、重く冷たい声だった。  彼の声音から唯一感じ取ったのは、拒絶だった。  瞬間、身体中の血流が途絶えて、手足の先が凍えるように思えた。  ブラッドフォード、とヤミールが震える声音で振り仰ぐ。ブラッドはじっとクバルの赤い瞳を見つめていた。 「俺をからかっているのか」  そうではないことに、薄々気づいている。からかっていると認識するにはあまりにも、クバルの声音は硬質で憎悪に満ちている。捩れた唇から乾いた笑いが漏れた。  何だって俺を憎む理由がある。俺はお前の敵じゃない。俺は、お前の。  ブラッドの問いに対してクバルはただ黙って、鋭利な刃の眼差しを向けていた。沈黙がブラッドの身体を貫いていく。  声を出せずにいると、ヤミールが湖畔の薄氷を破るように慎重に口を開いた。 「ブラッドフォード。外に出ていてもらえますか」  ブラッドは茫然としたまま、立て付けの悪い扉みたいに頷いた。  天幕から去るまでの間、真っ直ぐ歩くことだけを考えた。寝不足の身体がいっそ倒れてくれたらいいのにと、矛盾する内容を考えていた。

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