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消失
外で立ち尽くしている間、天幕の中からは内容を聞き取れない程度の低い話し声が聞こえてくる。時折、怒気が込められたクバルの声が届く度にブラッドは肌を震わせ、そして直後に形容しがたい虚無感に襲われた。
周囲を見渡せば、人々やテントの形を除けばヘリオススと同じ、乾いた赤い大地がある。けれど、期待していたこととは何もかもが違う。
これは悪い夢か。
寝不足で、きっといつの間にか眠ってしまったのではないか。
中から聞こえる取り乱した声によって、自分がいる場所が現実であることを知る。時間の感覚はなく、ブラッドはただ待った。左の拳を握り締める力もなく、悄然と亡霊のように立っていた。ヘリオススからともに来た王の腹心の戦士たちは、最初天幕から出てきたブラッドに話しかけて以来、遠巻きに見ていた。
しばらくして話し声がやむと、ヤミールとカーンが出てきた。ブラッドは無言で、憂いを帯びたヘリオサの表情を見つめた。
「クバルは……ここ二年程の記憶を失っています」
ブラッドは息を吐くことも忘れ、皮脂でべたつく額を掌で覆った。
「ダイハンがアトレイアと和平を結ぶ……シュオン王子がヘリオススへ嫁ぐ以前の記憶しかありません」
「……そうか」
「自分の置かれている状況に困惑しています。どうしてツチ族と行動をともにしているのかと」
「あいつは今、ヘリオサ・クバルか」
ヤミールが無言で首肯する。
「説明はしました。アトレイアとの戦があったこと、降伏し相互不干渉の盟約を取り付けたこと、そのためには赤い大地の他の部族と和平を結ぶ必要があったこと」
「そのために、自らの意志で我が妹と婚姻したこと」
淡々と話すツチ族の族長の息子を、ブラッドは無感情に見つめた。
「中にいた女は、あんたの妹か」
「ヤタだ。医者と一緒に彼の世話をしている」
ダイハンの平穏のために、自身が花婿となって結婚した女のことも覚えていないだろう。
そして、かつて結婚した男のことも彼は知らない。
アトレイア王国から第二王子シュオンが嫁ぐ、政略結婚の提案がされる前までクバルの記憶は退行している。およそ二年前に起こった、ダイハンにとって激動の出来事の記憶が彼にはない。
「クバルは理解したのか」
抽象的なブラッドの質問に、ヤミールは首を横に振った。
「とても理解できるものではないでしょう。アトレイアへの降伏、ツチ族との和平なんて、二年前では到底考えられなかった」
「ダイハンの王としてヘリオススと一帯を治めていたはずが、ある日目覚めたら敵対部族の天幕で寝ていたんだから、当然か」
「それから……あなたのことは話していません」
ヤミールは控えめにブラッドを見上げた。
「見るからにダイハンの民ではない、北の人間のあなたがいる理由を」
「……その方がいい」
今のクバルにとって最も理解に苦しむ存在が、ブラッドだろう。真実を一から追って伝えたところで、到底受け入れられない。ブラッドがダイハンの民として、戦士として、クバルを案じて駆けつけた事情の背景には、謀略や、嘘や、誓約破り――ヘリオサが決して許さない要素が複雑に絡み合っている。
ヘリオサである自分が、敵国から来た嘘つきの男を愛した。そんな荒唐無稽な話、信じられる訳がない。
「自分が記憶を失っていることは、把握できたようです。腹部には覚えのない大きな古傷もありますから。ですが、とても混乱しています」
「……だろうな。知らないうちに骨折までしてる」
「怪我もそうですが……一度和平を結んだアトレイアに裏切られ戦を起こしたこと。結果、アトレイアに降伏したこと。その決断を自分が下したこと。納得していません」
胃の奥がきつく収縮して苦しい。二晩まともに睡眠を取っていない不調もあって、身体の至る箇所が痛い。頭も、目の奥も、腹も、胸もだ。
「厳密に言えばあいつが決断したことじゃないが……ヘリオサ・クバルには、信じがたいだろうな」
「衝撃を受け、怒りを感じています」
ブラッドは一呼吸置いてから、自分は至って正気であることをヤミールに示そうと、つとめて静かな声で言った。
「余計な刺激を与えて混乱させない方がいいことはわかってる」
「ブラッドフォード」
よくないことだ、とヤミールは忠告しようとしている。正気ではあったが、彼の正しい言葉を聞き入れるほどブラッドは冷静にも、自棄にもなれなかった。
「もしかしたら……思い出すかもしれない」
俺がどんな気持ちでここまで来たか、お前はわかるだろう。頬が捩れて歪な笑みが出来上がる。笑っていないとやっていられない。
「少しだけでいい。クバルと話したい」
悲痛を押し殺したブラッドの表情を見て、ヤミールは頷くしかなかった。
再び天幕の中に足を踏み入れると、拒絶がブラッドを包み込んだ。
当然だ。今のクバルにしてみれば、ここは敵地。多くの仲間を殺され、そして殺してきた部族のキャンプにいる。そして身の回りの状況は何もかも変わってしまっている。
「アトレイア人か」
ブラッドを鋭い眼光で貫き、敵意剥き出しの様子に、虚しい苦笑が禁じ得ない。奥のベッドへと近づいて、傍に控えている医者とカーンの妹に目配せすると、彼らは無言で天幕を後にした。
「お前と話すことは何もない」
クバルにとっての敵はツチ族だけでない。アトレイア王国も同様だ。和平を結んだ事実があるとは言え、一度裏切ったとなればなおさらだ。
拒絶の後に重苦しい沈黙が落ちた。ブラッドは、チェストの横にあった椅子を引き摺ってきてクバルの前に座った。
「今はアトレイア人じゃない。俺の故郷だが、もう俺の国じゃない」
「……」
「俺はダイハンの戦士だ」
途端、目の前の男から不愉快気な気配を感じた。
その冷え冷えとした、異物を見る目。ブラッドを捩じ伏せ犯していた頃のクバルそのものだ。
ブラッドの知っている――期待しているクバルとはまるで別人だ。
「貴様は俺をからかっているのか」
喉から絞り出した、低く苦々しい声音。それは少し前にブラッドが言った台詞と同じものだ。叫びたいのをぐっと堪え、ブラッドは膝に置いた左手を握り締めた。
「俺のことがわからないか」
率直に尋ねた。返ってくる言葉は望んでいないものだと知っていたが、少しでもきっかけとなるものが欲しかった。
それは懇願に近かった。彼に、自分の名前を呼んで欲しかった。
「俺がアトレイアの男を認める訳がない」
断言して、クバルは大きな掌で額を覆って俯いた。彼の強烈な赤色が一瞬逸れたことに、悲しくも安堵する自分がいた。
「わからないことばかりだ。何もかも」
目元を覆ったままダイハンの言葉で独り言のように吐き捨てた声は、怒りに満ちていた。困惑と憤り。切れて血が滲んだ唇を歪めて、獣のように短く唸る。
「殺し合ってきた連中と手を結び……挙げ句、俺はダイハンを捨ててツチ族の首領の娘と婚姻したと」
「捨てた訳じゃない」
案外に強い語調で遮ったことには自覚がなかった。クバルは気力を失ったかのように悄然と顔を上げ、うっそりと眉を上げてブラッドを見た。
「捨てたんじゃねえよ。お前は、ダイハンを守るためにヘリオススを出て行った」
それが唯一、ダイハンと乾いた赤い大地一帯を救う方法だった。最善の選択だと信じていたが、今となっては自信が持てない。
結果、クバルは大怪我を負い、大切なことを忘れてしまった。
「……なぜ戦わなかった」
「そうするしかなかった。お前は迷っていたが、俺がお前に、行けと言った」
クバルの切れ長の目元に力がこもるのがわかった。
「お前にその権限が?」
不信感、憤り、軽侮。およそクバルには向けられたくない感情のすべてが、ブラッドの胸を突き刺す。
アトレイアの玉座の間で、自分の正体が偽りだと明らかにされた時も、似た眼差しを向けられた。
いっそ逃げ出してしまいたい。クバルにこんな憎悪を向けられるくらいならば、彼と正面から向き合うのは間違った選択だったかもしれない。
クバルは怪訝を露にしてブラッドに問う。
「ヤミールはなぜお前のような男を側に置いている」
「……今のお前にはわからないだろうな」
「ああ……わからない。お前は、何なんだ」
今のクバルにとって、混乱の因子は無数にある。その中でも極めて理解しがたい要素がブラッドの存在であることは、想像に容易い。
「俺は……お前の」
吐息が震える。その先は息が詰まって言葉が紡げなかった。
今のクバルに告げたところで、虚しくなるだけだと知っていた。
躊躇していると、深い嘆息が聞こえた。
「出ていけ」
「……クバル」
「共通語で言った。出ていけと。聞こえなかったか」
冷たく硬い声音はブラッドを受け入れない。これまでで最も強い拒絶だった。
目の前にいるのは、ブラッドの知らない男だ。ブラッドが愛した男だったが、今は違う。
もうすでにこちらを見てもいない。渇いた喉に無理矢理唾液を流し込み、ブラッドは立ち上がった。そして、衣服の内側に隠れていた首もとの細い紐を引き千切り、クバルの腰の辺りに放り投げた。クバルは弧を描く眉を顰めて再びブラッドを見上げた。
「なぜお前が持っている」
二年前にクバルがブラッドへ与えた、彼の母親から受け継いだものだ。細かく編まれた紐に、小さな白い石が独特の色彩を放っている。
「返す。俺が持っているべきじゃない」
短く言い放ち、クバルに背を向けた。
何が「思い出すかもしれない」だ。何ひとつ得るものなどなかった。大事なものを失ったことを、思い知らされただけだ。愛する人からの拒絶が、こんなにも全身をずたずたに引き裂くのだと初めて知った。
勢いよく天幕から出ると、近くで佇んでいたヤミールがぱっと顔を上げた。だが彼やカーンが口を開く前にブラッドは彼らの側を通りすぎ、歩いた。住民のテントや天幕がなくなるまで歩いた。
前に進むことに疲れて、硬い大地に膝を突いた。夕日は地平線に隠れ、辺り一帯は薄い暗闇に包まれていた。茫然と、膝を折った地面を見つめる。
薄く砂の乗った大地に掌を押しつける。
「は……無様だな……」
無意識に自嘲が溢れ落ちる。地面に爪を立て、握り締めることで、せり上がってくるものを堪えた。皮が擦りむけ、爪の付け根に血が滲むのがわかった。その痛みは、今自分が身を置いている場所は現実であることを教えてくれる。
クバルが無事であることを喜びたかったのに、それができない自分を憎く思った。そして、クバルさえも。
「お前のことが心底憎い、クバル」
ゆっくりと振り返り、小さくなったテントの群れを見た。
ここに、ブラッドの知っているものは何もない。ヘリオススに似ているが、何もかもがブラッドにとって優しくはないのだ。
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