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 翌朝、カーンの用意してくれた小さなテントの中で目が覚めた。二晩まともに睡眠を取っていなかった身体は昨夜ベッドに入った途端、気絶するように意識を手放した。  貪欲に眠れたことはかえってブラッドにとってはよかった。眠れずに冴えた頭で苦しいことを考えなくても済むからだ。  昨日のことは夢だったのでは。あるいは、一晩過ぎてクバルが記憶を取り戻してはいないか。そのような愚かな期待をすることも無駄だと知っている。ブラッドは憮然とした表情でテントを出た。 「あ……」  外にはヤミールが待っていた。ブラッドの顔を見た途端、気まずいような、当惑の声を上げる。ブラッドは太陽の眩しさから隠れるように額を左手で覆い、つとめて平静を装った。 「待ち伏せか? ヘリオサ・ヤミール」 「カーンが朝食を振る舞ってくれるそうです」 「そうか」 「クバルのテントで……彼も交えながら、話をすると」  わかった、と短く返答して足を踏み出したが、鉛を括りつけられたように酷く重く感じた。不自然に強張った表情をヤミールに見られなかっただろうか。隣に並んでツチ族の群れの中を歩きながら、ブラッドは彼の目に映る自分の姿だけを意識する。  哀れに見えないか。滑稽に見えないか。惨めに見えないか。これまでヤミールには無様な姿を幾度となく見せてきた。アトレイアから嫁いだ当初、意思とは関係なく身体を暴かれ、クバルには自由を制限され、ユリアーンに虐げら、戦場では死にかけ、右手を失って瀕死で帰還した。彼にはどんな不格好を見られても構わないと思っていた。  けれど今、強烈に意識している。何も傷ついてはいない。自分は「大丈夫」だと。  道中、ヤミールは言葉を口にしなかった。それはブラッドにとって幸いだったかもしれない。会話している途中、突然言葉を詰まらせるような事態には陥らないから。  クバルの療養しているテントを前にして、会いたくないと衝動的に思った。昨日まではあれほど待ち遠しく感じていたのに、今は入ろうとすると足が竦む。  完璧な拒絶を思い起こす。あの憎悪に満ちた視線に再び晒されなければならないと思うと、らしくなく怖じ気づく。 「やっと来たか」  佇んでいると入り口の幕が押し上げられて、ツチ族の戦士が顔を出した。心の準備もしないまま「入れ」と促されて足を踏み入れると、奥の方、地面に置かれた長卓の上に朝食が並べられていた。ベッドにはクバルが上体を起こしていた。  カーンやその側近と思われる男たちや、ヘリオススからともに来た戦士たちはすでに座していて、ブラッドとヤミールも隣に胡座を掻いた。  食卓に出された料理は、ヘリオススのものとさほど変わらない。鳥を蒸したものと、穀類の入ったスープ、石榴に似た果実。他部族から強奪した食糧だろうかと漠然と思う。 「よく眠れたか」  斜向かいに膝を折るカーンが無表情で問いかける。単純な気遣いなのか、嘲弄なのか判断はつかないが、ブラッドは「おかげ様で」と無愛想な言葉を返した。  食事に手をつけ、クバルを意識しないようただ咀嚼して嚥下する。だが、視界にどうしても彼の姿が入り込む。カーンの妹から差し出される器を受け取り、匙を使って慣れない手つきで口に運ぶ。甲斐甲斐しく世話をする新しい妻のことは、もう受け入れたのだろうか。  いや、ブラッドの気にすることではない。今回事故が起ころうが起こるまいが、彼女はクバルの妻として役目を果たしたはずだ。 「ヘリオサ・ヤミール。今後について話がしたい」  食事をしながらカーンが切り出した。ヘリオサ、と聞いて視界の端に映るクバルが反応したように見えた。 「そのことだが――クバルをヘリオススへ連れて帰りたいと思っている」  ヤミールの発言にブラッドは一瞬、手を止めた。 「記憶を失っている状態でツチ族と過ごすのは難しい。それに、故郷で療養した方が早く記憶を取り戻すかもしれない。ここには、彼に縁のあるものが何もないから」  クバルがツチ族のもとへ来たのは、本人がそれに納得し同意したからだ。しかし今のクバルにはその記憶がない。無理矢理連行されたような状態の、ツチ族への敵意を拭いきれないクバルをひとり残すのは危険すぎる。  ブラッドも、クバルを連れて帰還することには手放しで賛同したかった。だが、昨日の凍りつくような鋭い視線を思い出すと、思考が硬直する。  渦中の彼を一瞥すると、唇を引き結んだままヤミールを見ていた。一晩過ぎて落ち着いたのか――昨日のような混乱した様子はなく、ブラッドなど憎悪を向けるどころか気にかけてさえいないように見えた。 「ひとまずは、彼の記憶が戻るまではヘリオススで過ごさせたい。その後については、再度相談が必要だろう」 「契りを破るつもりか?」  器を持ったヤミールの手がぴくりと跳ねるのが見えた。  カーンは食事の手を止めないまま、視線も寄越さずにもう一度繰り返す。 「誓約破りになる」 「破るなど。状況が状況だ。裏切るのではない」  ヤミールが反駁すると、カーンは器を置いて透き通った薄黄色の目を険しくさせてこちらを見た。  注意深く耳を傾けながら、ちらとクバルの顔を一瞥したが、ブラッドにはクバルが何を思っているのか欠片も想像できなかった。 「我々ツチ族と、我々の長にとっては、過去の記憶の有無などどうでもいい。ヘリオサ・クバルもすぐに理解し、そして慣れるだろう」  それは予想や希望的観測というより、言い聞かせ促しているようだった。 「もし反古にするのなら、今ここで戦闘になってもおかしくない」  物騒な言葉を持ち出したカーンに、ダイハンの戦士たちの気配が変わる。肌を刺す鋭い空気が、朝の食卓を包み込む。皆、食事の手を止めてカーンや彼の戦士たちを警戒している。  しかし、ここはツチ族の縄張りだった。ヘリオススではなく、旗印のない乾いた大地でもない。こちらの意思を意地でも押し通せば、どんな結末になるか容易に想像がつく。  ブラッドは唾を飲み込んで、横目でヤミールを見た。そして、食卓の下で彼の華奢な手がきつく握り締められているのに気づく。  ブラッドは何も言わなかった。言えなかった。要求を押し通して欲しいような、あるいはカーンの諌めを受け入れて欲しいような、ブラッドは今の自分の気持ちがわからなかった。  ただ、どちらの選択をしたにせよ、苦痛にたえなければならないということ。それだけは理解していた。  少しの間、沈黙が落ちた。テント越しの陽光によって空気が温められていくのだけを感じる。   「俺を置いて行け」  張り詰めた空気を破ったのは、渦中の本人だった。彼の声は赤い大地の夜のように静かで、色はなく、何の感情も込められていなかった。  ブラッドは無意識に彼の名前が口から溢れ落ちそうになって、寸で飲み込んだ。呼び慣れたはずの名前は妙に喉に引っ掛かって、息苦しくなる。どうしてか、それに気づいたかのようにクバルが一瞬、ブラッドを見た。だが、すぐにヤミールに視線を移した。 「記憶をなくす前の俺が決めたことなら、そうするしかなかったんだろう」  ヤミールは曖昧に唇を引き締めた。  事実、クバルの言う通りだが、やはり、ヘリオススへ戻り故郷で療養することが、彼の精神にとって最もよいという考えが拭えないのだ。 「本人の意思は決まっているようだ」  カーンが追い討ちをかけるように言った。ヤミールは、王の顔ではない、ひとりの青年の顔でブラッドを見る。  ブラッドは逡巡した後、わずかに顎を引いた。 「……わかりました。クバルはここに残しましょう」  いいのか、と仲間の戦士が声を上げる。 「だが、負傷した彼ひとりだけを置いて行く訳にはいかない」  言外に、今回の一件でツチ族を完全には信用できないと告げている。  ヤミールはダイハンの戦士たちを見渡して、視線を止めた。 「バドラ。クバルが記憶を取り戻すまで、ツチ族と行動をともにしてくれないか」  ヤミールが口にした名前は、当然ブラッドのものではない。それ安堵していることに気づいて、ブラッドは自身を嫌悪した。  ――まったく、クバルに対面できることを喜んでいた心境は一体どこへ消え去ったのか。 「カーン、戦士をひとり残すことについては許しをもらう」  ツチ族の長の息子は、無言で頷いた。 「お前たちの不安と疑心はよく理解できる。構わない」  だが、と続けた言葉に耳を傾ける。 「クバルが俺たちのもとへ来て日は浅く、中には彼を快く思わない連中もいる。そこへさらにダイハンの戦士が加わると、反発は強くなる」 「……あんたが守ってくれるんだよな」  久々に発した言葉は重く、舌が上顎にへばりついて苦々しい声音になる。カーンは意に介した風もなく、頷いて言った。 「信用できる者を選んで護衛をつける。ダイハンの者ひとりより、俺の部下もついていた方が牽制になるだろう。それと、妹も必ず傍に置いておく」    カーンの庇護のもとにあるということを、ツチ族に周知するには最適な方法だろう。カーンも内心で、ブラッドが昨日、今回の事故の要因について言及したことを、完全に腹に落とすことができていないのかもしれない。  ブラッドはそっとカーンの妹だというヤタを垣間見た。ツチ族特有の、黄身を帯びた褐色の肌と、兄と同じ透き通った琥珀色の瞳。髪は男と同じように短く、美人という訳ではないが愛嬌のある顔立ちで、少女を抜けたばかりの年頃に見えるが身体は成熟していた。 「……わかった。それなら多少は安心だ」  記憶を失う前のクバルは、新しい妻のことをどう受け止めていたのだろう。少なくとも一月は生活をしていたのだ。食事や、寝床もともにしていただろうか。妻として接していただろうか。かつてアステレルラだったブラッドにそうしたように。  これからは? もしこの先も記憶を取り戻すことがなかったら、ブラッドという存在が人生に介在しなかったクバルは、ヤタを本当の妻として受け入れる日がくるのだろうか。 「ブラッドフォード」  食事を再開した後、ヤミールがブラッドにしか聞こえないように共通語で囁いた。 「傷が癒え、本人の気持ちも落ち着いたら改めて会いに行き、真実を話しましょう」  ブラッドフォードが何者で、クバルとどういった関係なのか。今は決して伝えるべきではない情報。真実を告げた際の衝撃と、彼に与える心理的負担は、計り知れないだろうから。 「もしかしたら、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれません」  平坦な忍び声は、ヤミールが心からそう望んでいるのか、それともブラッドに対する慰めなのかは判別がつかなかった。ふとクバルに目をやると、視線が交錯したような気がした。

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