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第8話 初めての朝④

 密林から一歩も外に出たことがなかったから話にしか聞いたことはないが、市場という場所では各国の食べ物や物を売ったり買ったりできるのだとか。  ちなみに犬の国はあまり売り物が無いらしく、荷物を運搬する仕事や、歌や踊りを披露する仕事に就いている人が多いと母さんは言っていた。 「一つ食べてみると良い」 「うん! いただきます!」  パンを取ると、見た目よりも柔らかい。アルの真似をして、一口大にちぎって銀の棒でバターを取り表面に塗る。  口に放り込んだ瞬間、液状になったバターが口の中に膜を作るように広がった。ミルクでてきているのが分かる、優しい味だ。そしてパンを噛むと柔らかな食感、そして小麦の芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。 「おいしい! すごくおいしいよ、アル!」  勝手に顔がにやけてしまう。羊の国にはこんなに素晴らしい食べ物があるなんて。 「それは……良かったな」 「うん!」  バターをたっぷりつけて頬張る俺をアルはしばらく見詰めた後、果物をスウードに取り分けてもらって食べ始めた。紫色の小さな実がたくさん枝についている。 「あ……!」  木の実だと思った瞬間、大切なことを思い出して反射的に立ち上がった。 「スウード! 俺の服のポケットに小さな包みが入ってなかった?」  慌ててスウードに詰め寄ると、彼は懐から葉っぱでできた包みを取り出す。 「これですか?」 「そう! 良かった!」  包みを受け取り、中を開けると二粒、木の実が入っていた。 「母さんから毎朝一粒食べるように言われてて……でももう二粒しかない……うぅ、どうしよう……」  密林生えている一般的な木なのだが、春になるとたくさん実がなる。味がしないので美味しくはないが、母さんに食べるように言われていたので、今まで一日も食べなかった日はない。 「見せてみろ」  アルが差し出した手に木の実を一粒乗せる。真剣な眼で木の実を眺め、匂いを嗅いだ後、僅かに目を細め耳がぴくりと反応した。 「ロポの住む森には普通にあるものなのか」 「うん、今一番たくさん生ってる時期だし、そろそろ一年分の実を採るつもりで居たんだけど……」  それがまさかこんなことになるとは思わなかった。ずっと母さんの言いつけを守ってきたから、これを食べないでいると良くないことが起こりそうで怖い。  アルはスウードに実を渡して、 「明朝までにこれを取って来れるか?」  と思いも寄らない台詞を言う。 「はい、獣化すれば明日の朝には戻れるかと思いますが──」 「では直ぐにここを発ち採って参れ。食事のことは気にするな。いくつかパンと果物を置いていってくれれば適当に食べておく。誰か代わりの者は呼ぶ必要はない。手伝いが必要ならロポに頼む」  何かスウードが言いかけたのを遮るように、そして言葉を挟めないようにだろうか、次々とスウードが言いそうなことを先回りしてアルが言う。 「……承知致しました。では、今すぐにお食事とお水をご準備致しますので」  スウードは足早に部屋を出て行き、しんと静まり返って初めて、ここにアルと二匹で丸一日過ごすということに気付いた。  無表情というか、何を考えているかよく分からないので、今は何かあってもスウードがカバーしてくれるが、正直言って居なくなられると不安しかない。  しかし、あの木の実を俺が採りに行くことはできないし、ましてや荷馬車で運ばれてきた距離を考えると一日二日で辿り着けないだろう。  俺は席に戻り、「ありがとう」とアルにお礼を言った。少なくともアルが提案してくれなかったら、木の実が手に入ることはないのだから。 「……いや、礼を言われることではない」  アルが再び果実を食べ始めたので、俺も食べかけのパンを頬張った。

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