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 俺は翌日、父さんの写真を胸にブランデンブルグ門に向かった。1961年8月13日、この門から左右に突如長い壁が築かれ、東ベルリンと西ベルリンが完全に分断された。ベトナム戦争、朝鮮戦争と同様に第二次世界大戦の後の東西冷戦の生んだ悲劇だ。  チェックポイントチャーリーの前に立つ。その昔、戦車がここで睨み合っていたなんて到底信じられない。 「突如築かれた壁によって、いきなり家族と引き裂かれた人々も多い。......お前の父親もそのひとりだ」 「え?」  ブランデンブルグ門の前、ミハイルの言葉に俺は固まった。ミハイルは静かに続けた。 「お前の祖父は東ベルリンの工場に働きに行っていた。突如壁が出来、二度と家族の元へ帰っては来なかった.....壁を越えようとして、警備の兵に追われ、事故で亡くなった」  俺は息を呑んだ。 「お前の祖母は看護師をしながら、お前の父親とその兄弟を女手ひとつで育てたんだ。....お前の祖父の実家は代々の軍人で戦後はかなり肩身の狭い思いはしたらしいが、その実家の援助もあって、お前の父親と兄弟はドイツの士官学校に入った。そして優秀だったお前の父親は、NATO に配属になった....」  そしてエージェントとして、崔のシンジケートの潜入捜査をしていて、見つかって殺された。  ミハイルは、傍らの壁の残骸の前に立ち、そして、一言一言を噛み締めるように言った。 「お前の父親の夢は、ベルリンの壁に隔てられた向こうにいる父親と会うことであり、両者を隔てる壁を無くすことだった。....自分の父親に会うことは叶わなかったが、ベルリンの壁は1989年の秋に崩壊した。そして東西に別れていたドイツもひとつになった....結局、自分の目でそれを確かめることは出来なかったが.....」  ミハイルが、俺の手を強く握った。 「お前に見せたい.....とノートの最後に綴られていた。ひとつになったベルリンとひとつになったドイツをお前の目にしっかり焼き付けておけ、ラウル。.....それがお前の役目だ。リヒャルト-ヘイゼルシュタインの息子。しっかりと見ておけ」  俺は深く頷いた。壁の跡地はほとんどが屋外のアートミュージアムになっていたが、歩いていくと一画に鉄条網とコンクリートの土台が草むらの中に残っているところがあった。 ーこれが、本当の壁の跡なんだ.....ー と俺は思った。  そして、俺は今一つ、ベルリンに来て、疑問に思っていたことを訊いた。  ユダヤ人に対する大虐殺(ホロコースト)のことだ。 「何故、ヒトラーはあんなことをしたんだ?...そして、なぜ周辺諸国はそれをそれを止められなかった?」  ミハイルは、しばし考え込んでいたが、ひとつひとつ慎重に言葉を選びながら言った。 「人間は、人間の集団はその結束を維持するために、内に膨らんだ不平や不満の解消に外側の存在をその標的として攻撃させることがある。人種や民族の差別はもっとも原始的な分かりやすい方法だ。周辺国がなぜ止めなかったかと言えば、キリスト教社会において、ユダヤ人は既に差別される存在だった。キリストを裏切った者としてね」 「そんな古い話.....」 「そのユダヤ人達が、キリスト教社会に住みながら頑なに自分達の文化に固執していたことにも『差別』の原因がある。キリスト教に改宗せず、ヘブライ語を使い続け、自分達だけの集落、ゲットーを自ら維持していた。キリスト教徒に差別されながら、自分達もまたキリスト教徒を差別していた。もっとも.......」  ミハイルが唇を歪めた。 「迫害の原因は、土地を持たないユダヤ人達は交易によって富を築いた者も多かった。正しく国民ではないにも関わらず、ヨーロッパの多くの国で経済の中枢を握っていた。それが、不況に喘ぐ、キリスト教徒の国民達の憎悪を呼んだ。それの究極が、ヒトラーによる大虐殺(ホロコースト)だ」 「それじゃ.....」  俺は言葉を失った。 「第一次大戦後に英仏が、アラブ諸国の反対を無視してイスラエルの建国を認めたのは、遠回しなヨーロッパからのユダヤ人の閉め出しだしな。.....結局、イスラエル人になったユダヤ人達は、今度はパレスチナの人々を迫害し、虐殺している。....人間てのはそんなもんだ」 「被害者が加害者に変貌したわけか.....」  俺は大きく溜め息をついた。そして崔のことを思い出した。あいつもベトナム戦争の被害者だった....そして恐るべき『世界』に対する加害者....いや、なっていた。 「ユダヤ人の悲運が大きく取り上げられるのは、社会的に力を持っている人間が多いからだ。カンボジアの独裁者による虐殺も政権が倒れてから知られるようになった。中国の人民政府による少数民族の虐殺には国連ですら明確なsuggestionを示せない」  ミハイルは、大きく息をついた。 「この世界の何処にも絶対的な正義は無いし、全き善人もいないんだよ、ラウル」 「でも.....」  俺はミハイルの頬を両手で挟んで、じっと見つめた。ブルーグレーの瞳に微笑みかけた。 「誰だって平和を望んでる。少しずつだって譲り合って手を差しのべ合えれば不可能じゃない」  ミハイルは微笑み、俺を抱きしめた。 「その通りだ.....日本人てのは凄いな。つくづく思うよ。俺達が努力すべきと思うことを『当たり前』に出来るんだからな」  そして、俺の肩を抱いて言った。 「墓参りに行こう.....」

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