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それに今更、尚弥と会ったところで向こうはもう覚えていないかもしれない。
仮に覚えていたとしても、向こうにとって俺は友達でも何でもなくただの暇潰し、恋心を抱かれた気色の悪いやつで会いたくもないだろう。
「律仁さん、それは本当にまずいのでやめてください。そんなことで活動できなくなったら一律ファンとして悲しいです」
渉太の『律ファン』という言葉を聴いて冷静さを取り戻したのか、律仁さんの自分を引く力が緩められた。怒りが不完全燃焼のまま意気消沈していくのが表情で判る。
「そ、それにっ……俺は大丈夫なんで。
今は分からないけど、藤咲くんのピアノはホントに凄いんです。律の曲、毎日音楽室で隣で弾いてたの聴いていて耳だけじゃなく目でめ魅せてくれるピアニストだなって。だから、律仁さんには藤咲くんとの仕事は先入観とかなしにしてやってほしいです」
別に尚弥が悪いやつだと吹き込みたいわけじゃない。
確かに尚弥の言葉で自分は心に深い傷を負ったけど、彼の気持ちを考えられず、本心を訊くのが怖くて、いいように逃げていた自分にも落ち度があった。
夜空の下で律仁さんと約束したように自分は前を向かなきゃいけないから、|尚弥《トラウマ》に怯えている場合じゃない。
渉太は律仁さんの手を取っては、「戻りましょう」と微笑んだ。後ろから「渉太はホントに勿体ないくらいいい子だよ」が呟いていたのが微かに聴こえてきて、渉太は「そんなことないです」と返しては褒められてるのが恥ずかしくて耳朶を赤く染めた。
来た道を戻ろうと律仁さんの手を引いたところで、向かい側から人の気配がする。黒いスーツの男とベージュ色のスーツの女性が此方へと向かってくる。騒がしい声を聞きつけて関係者の人が注意しに来たのだろうか……。
こんな一般人が関係者以外出入り禁止な場所にいるなんて流石にまずい。
渉太は「渉太…止まって」と低く少し棘のある声で呼ぶ律仁さんを無視して怒られる覚悟で顔を背けては、通り過ぎようと足早になった。
「あれ、浅倉さんと………何で君が此処にいるの……?早坂渉太」
すれ違いざま呼ばれて心臓がドキリと鳴る。
明らかに律仁さんではないのに、聞き覚えのある声。足を止めたものの振り返るのさえ躊躇う。
繋がれた律仁さんに強く握り返されてたのに勇気を貰っては意を決して振り返る。そこには正装をして、より一層上品さを華やかせていた尚弥が立っていた。
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