278 / 295

慌ただしい御正月⑫

「それでなんだが……」  しばらく、律仁さんと和田功の話で盛り上がっていると父親は、徐に座席を立ち上がり、固定電話のある棚の引き出しから油性ペンを出してくる。 手元に置かれていた律のⅭⅮを彼の目の前に差し出してくると、心なしか恥ずかしそうに「とりあえず……サインもらえるか?」と問うてきた。 「僕のですか?」と律仁さんは驚いた表情みせ、聞き返すと大きく咳払いをして「君以外誰のだと言うんだ」と少し怒気が込められていたが頬を染めていることから照れ隠しをしているのだと分かった。 和田さんの話をしていても何処か冷静の様子だったので、まさか父親の口からサインをお願いしてくるとは思わず渉太は一驚する。 俺ですからこんなに律仁さんの近くにいても、律として彼にサインを貰うことを躊躇っているくらいなのに……。 騒がしく二階へ行ってしまった母と言い、サインを求めてくる父親と言い、そんなに律仁さんを芸能人扱いするのは、仕事以外はフラットな律仁さんで居たがる彼には申し訳ないような気がして渉太は浮かれ気味の父親に前のめりになりながら注意をする。 しかし、律仁さんはそんな渉太の腕を抑えて「いいよ、サインくらい」と微笑んでは色紙とペンを受け取ると慣れた手つきでサインを書いていた。 目の前に芸能人がいる状況など、早々ない話しではあるし、家族の気持ちは分からなくないがこんな騒がしく浮つく家族を律仁さんに見られる気恥ずかしさは少なからずあった。  律仁さんの車で後部座席に座るのは初めてじゃないだろうか。運転する彼の後姿を見る景色は新鮮ではあったが、渉太は終始不安で心から楽しめるような気分ではなかった。 「律の助手席に乗っているなんて夢みたい‼ホント嬉しすぎる」 「それはどうも。渉太のお姉さんに敢えて嬉しいです。これどうぞ、足元寒いでしょ」  律仁さんが運転する助手席で半ば興奮気味に騒いでいるのは、渉太の三つ上の姉、|早坂梨渉《はやさかりほ》だった。 こんな真冬に膝丈スカートを履いていた彼女を気遣って、律仁さんが渡した毛布を喜んで受け取っている。  そんな前方二人の様子を眺め、嫉妬心のような怒りを沸々と抱きながらも、彼女自身も当然、日頃芸能人と出会うことのない。 それに、あの姉弟揃って推していた律ともなれば姉の気持ちも理解できるだけに目を瞑ることしかできなかった。  律仁さんの優しさだって、マイペースで意地悪い部分はあれども日常的な事、律仁さんは律でもあるし俺だけのものじゃない。 それに家族に冷たいより優しい方がいいに決まっている。そんな嫉妬心を抑えて一度瞼を閉じると、渉太は胸に手を当てて気持ちを落ち着かせていた。

ともだちにシェアしよう!