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第6話
「ところで今日は何の用事で来た訳? さっきスペンサー警部から電話があったけど、それの件?」
「あ、はい、そうです。昨晩起きた事件についての情報を集めています。こちらの顧客だったフィリップ・アンダーソン氏をご存知ですよね?」
「ああ、あの強突く張りのジジイ? 知ってるも何もあいつには困らされてたんだよね。何? あいつ何か悪いことして捕まった? それだと僕も助かるんだけど」
「いえ、昨晩亡くなりました」
「死んだの? もしかしてあの若い後妻とやってる最中に腹上死でもした?」
そう言うと、レイモンドはけらけらとおかしそうに笑った。
「違います。昨晩何者かに殺害されたんです」
リチャードは、真面目な口調で畳みかけるように言う。その口調は少し不機嫌なトーンだった。いくら悪い人間であっても、死んだ人間を笑うのは不謹慎だと思ったからだ。
「殺されたの? あのジジイだったらあっちこっちで恨み買ってそうだもんね。もう犯人の目星ついてるの? それとも僕のところに警察官が来たってことは、僕が疑われてる訳?」
「いえ、違います」
リチャードは慌てて手を振った。仮にも目の前の口の悪い天使は、警視総監の甥だ。間違っても彼が被疑者だなんてことはあり得ないし、そんなことを冗談でも言ったらいけない。間違いなくリチャードのクビが飛ぶ。
「フィリップ・アンダーソン氏がこのギャラリーの顧客だと聞いたので、彼について知りたいと思ってこちらに来ました。ご存知のことがあれば何でも構いませんので、教えて頂きたいのですが」
「ああ、そういうことでわざわざ来たの?……でも僕もあんまり詳しくは知らないよ? あのジジイ、とにかく金に汚くて、ギャラリーに買い物に来るといつも値切ってきてたんだよね。その値切り方が尋常じゃないから、あんまり彼には売りたくなかった。本当に美術品の価値が分かってるんだったら、あんな値切り方は僕や美術品に対して、失礼だって分かりそうなものなのに。いつも平気な顔してあれやこれやとうちの商品に文句を付けるから、出来ればもう二度と来て欲しくなかった。これは僕の本音。でも商売人としては、買ってくれるお客さんは有り難いから、顔や態度には出さずに適当にあしらって売らせて貰ってたよ」
「そうですか。もう長いことこちらの顧客なのですか?」
「僕がギャラリー始めてから五年になるけど、割と最初の頃から来てたかな……正確にいつからうちで買い物するようになったかが知りたかったら、顧客名簿見れば分かるけど」
「そうですか。もし必要になったら、お願いするかもしれません。他に彼について、何か気付いたことなどはありませんか?」
リチャードはメモを取りながら質問を続ける。
「あのくそジジイ、一年くらい前から急に毎回ここに来ると僕のこと抱かせろ、ってうるさく言い出してさ。それまでは金に汚いだけの客だったのに、それ以上に厄介な奴になったんだよね」
「は?」
思わずリチャードは取っていたメモから顔を上げて、レイモンドを見つめる。レイモンドはこれ以上ない、と言うくらいの不機嫌な顔で話を続ける。
「僕が売ってるのは美術品であって、僕自身じゃないっての」
「あの……それは」
「何? 僕が言ってる意味分かんないの? あのすけべジジイ、商品を買ってやる代わりに僕と寝たい、って毎回しつこく言い続けてたんだよ。最悪だろ?」
「で、その……」
リチャードが言い難そうにしていると、レイモンドはいらいらした口調で答える。
「する訳ないだろ! あんなジジイとなんて気持ち悪い。それなら買って貰わなくて結構です、って言ってたよ」
「ああ、そうなんですね……」
リチャードは何故かホッとしていた。フィリップ・アンダーソンがどんな人物なのか知らなかったが、レイモンドのような美しい青年が気持ち悪い、と評する人物と嫌々ベッドを共にしていたなんて考えたくもなかった。
「とにかく、あのくそジジイが死んでくれて僕としては安心だよ。もう二度と迫られる心配がなくなった訳だからね。こんな言い方して、嫌な奴だと思われるかもしれないけど」
レイモンドは視線を落とした。もしかすると言わないだけで、本当はもっとひどいことをされていたのかもしれない、とリチャードは思った。
「でも確か、フィリップさんは奥さんがいらしたんですよね?」
「いるよ。ジジイより二十歳ぐらい年下の厚化粧の女でさ、一年くらい前に結婚したんじゃなかったかな。あの女、僕にも色目使ってきて夫婦揃って嫌な奴らだったよ。あんな色情狂みたいな女と結婚したから、僕にも言い寄るようになったんじゃないか、って実は思ってたんだけど」
「奥さんがいるのに、その……」
「ジジイは男も女もどっちも好きな色惚け野郎だったんだろ」
「ああ、そういうことですか」
リチャードは納得いった、と言う顔で頷いた。まだフィリップ・アンダーソンという人物のごく一部分だけを聞きかじっただけだが、何となく彼の人となりが分かってきたような気がした。何かと私生活に問題が多い人物だったようだ。その辺りから容疑者を絞るべきなのかもしれない。
「レイモンドさん」
「レイでいいよ」
「は?」
「レイって呼んでいいから。何回も同じ事言わせないで」
いらいらした様子でレイモンドが言う。リチャードは慌てて話を続けた。
「あ、分かりました。あの、そのレイ……のギャラリーで購入した薔薇の絵についてお聞きしたいのですが」
「薔薇の絵?」
「はい。こちらで買ったと聞いたのですが」
リチャードは、フィリップが死んでいたダイニングホールに飾られていたという、薔薇の絵について尋ねた。その絵を見立てに使ったのではないか、という疑いがかけられている。もしかしたらあの絵について詳しく知ることで、殺人事件の謎が解けるかもしれない。それだけに質問をおざなりにする訳にはいかなかった。
「薔薇の宴」
レイの口からこぼれ出た言葉は、まるで天使の吐息のように聞こえた。
「え?」
「あの絵のタイトルだよ。『薔薇の宴』。十九世紀ヴィクトリア時代の画家ハーバート・ギブソンが描いた、ローマ時代史上最悪の君主をモデルにした絵。今になって思ってみたら、あの絵ってあいつにぴったりの画題だったんだね。ねえリチャード、ローマ時代史上最悪の君主って誰だか知ってる?」
「皇帝ネロ……ですか?」
「ネロも暴君って呼ばれているけど、もっとひどい奴がいたんだ。二十三代目皇帝ヘリオガバルス。ヘリオガバルスは通称名で、本当の名前はマルクス・アウレリアス・アントニウス・アウグストゥス。シリアのエメサで生まれ、先代ローマ皇帝カラカラ帝を退いて後釜に座ることで皇帝になった。……彼のこと知らない?」
「ええ。初めて聞きます」
「ヘリオガバルスは英国の著名な歴史家に言わせれば、醜い欲望と感情に身を委ねた最悪の皇帝だったんだ。政治は祖母と母親に任せきりで、自分は豪奢な生活を好み、宴に明け暮れる日々を過ごした。そして退廃的な性生活に耽溺し、次第に常軌を逸していく。五回も結婚、離婚を繰り返し、二度目と四度目の結婚にはウェスタの処女と呼ばれる神聖な巫女すら、禁を破って娶った。そして五度目の結婚の相手は、奴隷の男性だったんだ。しかもヘリオガバルスはその奴隷に抱かれるために、妻となったんだよ。それだけでは飽き足らず、夜になると化粧をして男娼の真似事をし、宮殿内の男を誰彼構わず誘っていたらしい。そんな皇帝に人々は愛想を尽かし、近臣達は呆れて彼を見放した」
「……皇帝はどうなったんですか?」
「反乱を起こした近衛兵たちに捕らえられ、母親と共に処刑された。まだ十八歳だったそうだよ」
「そんなに若くして……」
「皇帝になったのは十四歳の時だった。短い統治の期間だよね。そのヘリオガバルスが行ったと言われているのが薔薇の宴。ローマ皇帝について書かれている書によれば『客の上に薔薇の山を落として窒息死させるのを見て楽しんだ』らしい。それをテーマに描かれたのがあの絵なんだ」
「すみません、まだ実物を見ていないので、どんな絵だか私は知らないんです」
「そうなの? ちょっと待って」
レイはデスクの後ろ側にある書棚から、分厚いファイルを取り出した。ぺらぺらとめくり目的のページを探す。
「これ」
お目当てのページが見つかると、レイはリチャードの方へファイルを向けて、よく見えるようにしてくれた。どうやら彼のギャラリーで、取り扱った絵のポートフォリオのようだった。
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