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第7話
『薔薇の宴』、その絵は一面に溢れんばかりの赤い薔薇が描かれ、その中に恍惚の表情を浮かべた人々がいた。男もいれば女もいる。そのどちらもがとても美しい人々で、そんな彼らが薔薇の中に埋もれている様子は、一種異様な光景でもあった。レイの説明によれば、薔薇によって窒息死する人々を描いているそうだが、その顔に浮かんでいるのは死の苦しみや恐怖の表情ではなく、むしろ薔薇の芳香に酔って微睡んでいるようにしか見えない。そしてその後ろには、豪華な宴の最中の狂気のローマ皇帝の姿があった。彼は無表情で、薔薇に埋もれて死んでいく人間を見つめている。
一見すると薔薇に目が行くので、ただの美しい絵と認識してしまうが、テーマを聞くと本当は恐ろしい絵なのだと思わずにはいられない。
この絵をダイニングホールに飾っていたというフィリップは、一体どのような気持ちで見ていたのだろうか。
「そういえば」
レイがふと思い出したように口を開く。
「この絵を買った時は珍しく値切らなかったんだ。それどころかこちらの言い値で買う、とまで言ってきて……最初は何か裏があるのかと思ったんだよね。でもそんなことなくって……あれはどうしてだったんだろう?」
レイは不思議そうな表情を浮かべた。
「どうしてもこの絵が欲しかった、と言うことですか?」
「多分ね。死んじゃった今となっては本人に聞くことは出来ないけど、そうとしか思えない。いつもだったら、あれやこれやと難癖つけてくるくせに、やけに素直に僕がつけた値段で買ったんだ」
「フィリップさんは、この絵を描いた画家が好きでコレクションしていたとか?」
「どうかな。僕のギャラリーで時々同じ画家の絵を扱うけど、この絵以外に彼が欲しがったり、興味を持ったことはなかったよ」
「では、ただ単にこの絵が好きだったから、でしょうか?」
「そうかもしれない。今から一年ぐらい前だったかな……あのジジイがいつものようにギャラリーに来たと思ったら、壁に掛かってたあの絵をすぐに見つけて、僕に挨拶もせずに絵の前に歩み寄って行ったんだ。今思えばその時の彼は、とっても驚いた顔をしていたような気がする。僕はまたあいつが来たのか、ってうんざりしてたから、全然気に留めてなかったんだけど。それから彼はしばらく食い入るように絵を見つめた後、僕のところに急いで来て『あの絵を売ってくれ』って慌てて尋ねたんだ」
記憶を辿るように、レイは目を細めてどこか遠くを見つめるような表情をした。リチャードは、そんな彼の横顔を見つめて複雑な気持ちになる。
――こうして黙っていると、本当に天使みたいなのにな。
リチャードの視線に気付いたようで、レイが彼の方を向く。
「何見てんの?」
「あ、いや、あの、それでどうなったのかな、と思って」
慌ててリチャードは口ごもりながら言った。
「あんまりジロジロ見ないでよ」
「す、すいません」
ふん、とレイは言うと続けた。
「その後どうしたかな……そうだ『この薔薇の絵は幾らなんだ、幾らでも出す』って言うから値段を言ったら『分かった、今すぐこの絵が欲しい』って。それで僕がいつもと様子が全然違うから戸惑ってたら『この薔薇の絵は素晴らしい。今まできみのギャラリーで買った美術品の中で一番だよ』って手放しに褒めてきて、その後ようやくこの絵の画家が誰なのか、一体何を描いているのか、って尋ねてきたんだ。普通だったら値段の前に画家や画題を尋ねるのが先だと思うんだけど」
「絵が単純に好きだったから、どうしても欲しいと思ったのではないでしょうか?」
「ど素人ならそれも分かるけど、あのすけべジジイ、ああ見えて結構いい物をコレクションしてたんだ。そんな人間が誰が描いたのかも確認せずに、こちらの言い値で買い取るなんてことは言わないよ」
フィリップ・アンダーソンが絵を見た日、彼の中で何かがいつもと違っていた。いつもであれば美術品の美しさよりも金額に重きを置いてしまうような人物が、美しさにより価値を見いだしたかのような行動を取った。あの絵の中の何かが、彼をそこまで真剣にさせたのだ。でも一体何が? あの絵の何が彼を夢中にさせたのだろう?
リチャードはやはり絵を実際に見なければならないな、と思っていた。
ポートフォリオ上の絵は小さくて、あまり細かいところまでは見えなかったのだ。実物の絵はもっと大きな物だと聞いている。本物を見る事で、何か新しい発見があるかもしれない。
スペンサーはレイを連れて、ハインズフィールドへ行くように指示を出していた。レイは同行してくれるのだろうか? リチャードは尋ねてみることにした。
「レイ、この後事件現場のハインズフィールドへ行くのですが、一緒に来て頂けますか? スペンサー警部から、現場にある絵があなたが売った物かどうかを、確認して欲しいと言われています」
「命令じゃなくて、あくまでも僕の自由意思で行くか行かないか決めていいってこと?」
リチャードはおかしな事を聞くんだな、と思ってレイの顔を見た。レイはあくまでも真面目な表情である。見たところ決して冗談を言ってる訳ではなさそうだ。そしてしばらくの沈黙の後「行ってもいいいよ」と素っ気ない返答がある。
「変なこと聞くんだな、って思ったんでしょ? でも僕にだってそう言いたくなるような理由がちゃんとあるんだ。僕がAACUのコンサルタントをしてるのは、リチャードも知ってるよね?」
「はい」
「今までにも何度も捜査協力を依頼されてきて、その都度僕も出来る範囲内で手助けしてきた。僕が手伝ったことで事件が早期解決したことだって、何度もあるんだよ? なのにいつも警察の人間は僕のことを馬鹿にするような態度しか取らないんだ。僕の見た目がこうだから? それとも僕の叔父さんが警視総監だから? 誰も僕の本当の姿なんて見てくれない。僕に対して偉そうな態度で命令ばっかりしてさ。おまけに意見を求められるからこっちは発言するのに、おざなりにしか聞いてくれないんだ。だから嫌になっちゃったんだよ。最近では現場に来てくれ、って言われても断るようにしてた。行ったら絶対に不愉快な気分にしかならないからね」
レイは悔しそうに俯いてそう答えた。リチャードは今にも泣き出しそうなその顔を見て、何度も嫌な目に遭ってきたのだろうな、と思った。そして自分自身が署内で受けてきた謂われのない陰口や噂話、そして蔑まれるような態度を思い出し、レイに同情するのと同時に、どこか彼に対して仲間意識のようなものを感じ始めていた。
「もしも嫌なら、無理して来て頂かなくてもいいんですよ?」
リチャードは気を遣ってレイにそう言う。
「ううん、リチャードが一緒にいてくれるんだったら、僕行ってもいいよ。その代わり現場ではずっと一緒にいてよ? 他の警察官は信用できないから」
「分かりました」
レイは少し気弱な表情を見せてそう言った。本当ならば行きたくない気持ちの方が大きいのだろう。だが自分のギャラリーの顧客が殺され、そしてまた自分が売った絵を確認して欲しい、と言われれば行かずにはいられないのに違いない。
リチャードは責任重大だな、と密かに思っていた。もしもこれでレイの期待を裏切るような真似を自分がしてしまったら、もう二度とAACUへの協力はしない、と言われるかもしれない。それほど思い詰めたような表情をレイはしていた。
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