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第12話
「現場はここの隣、ダイニングホールと呼んでいる部屋だ。遺体はすでに運び出して解剖に回されてる」
「死亡推定時刻と昨晩の被害者の行動は?」
「死亡推定時刻は真夜中の零時から明け方3時までの間。昨晩は8時すぎに奥方と息子とダイニングホールで夕食を取った後、この広間に移って9時半ごろから酒を飲んでいたそうだ。奥方と息子は10時には部屋に戻った。10時半に執事が戸締まりの為に屋敷を見回った時は、一人でここでまだ飲んでいるのを見たそうだ。主人が一人で飲んでいるのはいつものことなので、気にすることなく部屋に戻って寝たと言っている。犯行があったのはその後だろう」
ハワードに促されて、リチャードとレイは隣のダイニングホールへ移動する。
リチャードは周囲を見回しながら、この屋敷は随分と金をかけ贅の限りを尽くしているな、と思っていた。部屋の壁には絵画がかけられ、そこかしこに高級家具が置かれて、調度品や彫刻品などの美術品が目に付くところに常にあった。多分このうちの大部分はレイのギャラリーから購入したものに違いない。レイの方をちらり、と見やると、彼も自分が売った物が気になるのか、視線をあちらこちらに泳がせていた。
「ここがダイニングホールだ」
そう言って、ダイニングホールのドアをハワードが開けた。
開けた瞬間に薔薇の香りが部屋から流れ出す。
「すごい匂いだな」
薔薇の香りは嫌いではなかったが、圧倒的なその存在感にリチャードは思わず眉を潜める。
部屋の中はまさに薔薇が発散している匂いが充満している状態だった。息をするのも躊躇うほどの香り。
「強烈な匂いだろう? マスクいる?」
「いや、いい」
ハワードはポケットから鑑識官に分けて貰ったマスクを出すとかけた。
「嫌いじゃないけど、ちょっと俺にはきつすぎる。レイモンドくん、きみはいらない?」
「結構です」
「素っ気ないね。俺もしかして、嫌われてる?」
「ハワード」
「はいはい。相変わらずリチャードは厳しいな。……まずは部屋に入って見てみてくれ」
そう言うと、ハワードは二人のために体を壁側に寄せた。
「すでに鑑識の検証は終わってるから、そのまま入って貰って構わない。ただ遺体が発見された場所には、まだあまり近づかないでくれ。もう一度チェックが入るから」
リチャードの目に飛び込んできたのは一面の赤、だった。
ダイニングホールの奥に一瞬血の海のように見えたそれは、床の上にばら撒かれている薔薇の花だった。
「これは……」
「びっくりするだろう? これだけの薔薇の花集めるだけでも大変だろう、って思うんだけど、実は大した苦労はいらないんだ。庭に薔薇専用の温室があってね、一年中これくらいの薔薇の花が常に咲いているんだそうだ」
リチャードは部屋を区切るように『KEEP OUT・立ち入り禁止』と書かれた、青と白のバリアテープが張られているぎりぎりの場所まで近づく。
ダイニングホールの中には、十人程度の人間が悠々と着席出来るほどの大きさのテーブルが置かれ、左手の壁際には立派な大理石で出来た暖炉があった。その上にはあの絵……『薔薇の宴』が掛けられている。入って正面は大きく窓が取ってあり、緑色の蔦模様の壁紙に合わせるように、薄いミントグリーンのシルク製のカーテンが掛けられていた。今はカーテンは両端に寄せられており、眩しいばかりの外の陽の光が室内に入ってきていた。
リチャードは左手の大理石製の暖炉の方に目をやる。この前には薔薇の花の海が広がっていた。
ここに当主のフィリップ・アンダーソンが死んでいたのだ。
「被害者の遺体は?」
「俺が来たときは、この丁度一面の薔薇の花の真ん中辺りにうつ伏せに倒れていて、体の上にも薔薇の花が載せられていた。あの辺りに乱れている部分があるだろう? あそこに遺体があった。手前から真ん中辺りまでの乱れがひどいのは、妻のアマンダ・アンダーソンが生死を確かめるために遺体側まで近寄ったからだ。その後救急隊員が来たが、同じ場所を通るように気を付けてくれたので、発見当時とさして変わりはない筈だ」
リチャードはしゃがんで、薔薇の花が踏みつぶされている手前から真ん中辺りまでをよく見ようとした。
「美しい薔薇の中に薄汚いジジイが埋もれて死んでるなんて、醜悪な絵面だな」
レイが吐き捨てるように言う。リチャードは驚いて側に立っていた彼の顔を見上げた。レイの表情は差し込む光に邪魔されて上手く見えない。一体何が彼にそんな発言をさせたのか、リチャードは理解に苦しんだ。
これにはハワードも驚いたらしく、ひゅう、と口笛を吹いた。
「レイモンドくん、言うねえ。何か恨みでもある訳?」
「別に。ただそう思っただけ」
ふい、とレイは横を向いてしまう。リチャードは立ち上がると、レイの耳元で彼にだけ聞こえるように言った。
「もしここにいるのが苦痛でしたら、隣の部屋で待って頂いても構いませんが」
「リチャード、僕を厄介払いしたいの?」
「……まさか。レイがここにいたくないのかと思ったんです」
「絵、ここからしか見られないんだね」
レイは突然話題を変えた。バリアテープが張られているせいで、例の絵まで近づくことが出来ない。遠目に見えないことはないが、リチャードは出来ればもう少し近づいて見たかった。
「すみません。今日のところはここから見て頂けますか? あの絵はレイがギャラリーで売った絵で間違いないでしょうか?」
「多分ね。裏に貼ってあるプロヴィナンス(絵の持ち主の系譜状)が、僕が確認した物かどうかまで見てみないと、百パーセントそうだ、とは断言出来ないけど」
ギャラリーで扱うほとんどの真作の絵画には、裏側にプロヴィナンスが貼り付けてある。古い絵画であれば、販売当時のギャラリーが貼付しており、そうすることで出自が明らかとなって絵が本物であるという確証を購入者が持つことが出来るのだ。この場合、『薔薇の宴』はヴィクトリア時代の絵画なので、その当時のギャラリーが貼付したプロヴィナンスが絵の裏側に貼られている筈だ。レイが確認したいのは、それが彼がすでに見た物かどうかであり、もしそうであれば、彼が販売した本物の絵ということになる。
「後日、また絵は詳しく確認して頂くことになると思います。もしあの絵がすり替えられた贋作だったとしたら、やはり犯人はこの屋敷の人間でしょうか」
「そうだろうね。多分、スペンサー警部が考えてるのは、あの絵がすり替えられて売却されたことに気付いたフィリップを犯人が殺害した、ってシナリオじゃないかな。もしそうなら捜査範囲はぐっと狭くなるからね。捜査はやりやすくなる」
「確かに、そんなことが出来るのは屋敷内の人間だけですからね。……でもどうして現場に薔薇の花を?」
「犯人が誰かを知っている人間が『薔薇の宴』に注意を向けさせるために、仕組んだ舞台装置」
「だとすれば、犯人も薔薇を置いた人間もどちらも屋敷内にいる、と言うことになりますよね」
「それはあの絵がすり替えられた物かどうかを確認してから、考えた方がいいと思うよ」
レイは目を細めて絵を眺めた。この距離から真贋を見極めるのは、専門家でも難しいものなのだな、とリチャードはレイの横顔を見て思う。
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