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第14話
屋敷の敷地はかなり広く、背の高い木々で囲まれていた。綺麗に成形された庭があり、その向こう側にガラスで出来た大きな温室がある。その大きさは下手をすると、小さな一軒家ほどの規模があった。
「これは大きいな」
リチャードも驚いたようで思わず感想を声に出す。
「だろう? この中全部薔薇の花なんだぜ」
「全部? 他の植物は育てていないのか?」
「薔薇だけ。昔は違う植物も育ててたみたいだけど、最近は薔薇しか育ててないんだと」
「レイは知っていましたか?」
「全然」
ハワードは一度見に来ているので、出入り口の場所もすでに知っており、勝手知ったるといった感じで温室の扉を開けた。
「すいません、誰かいますか?」
一応、といった感じでハワードが声を掛けると、奥の方から「どうぞ入って下さい」と声が返ってくる。
「庭師がいるみたいだ。入っていいってよ」
ハワードの後ろにいたリチャードは、レイを先に入れると、自分も後に続いた。
温室の中は温度と湿度が高く、むっとした空気で満たされていた。その中に薔薇の芳香が充満している。先ほどの事件現場を思い出させたが、何かが違っているような気がリチャードはしていた。その違和感はあまりにもぼんやりとした印象でしかなかったので、はっきりと言葉に表わす事は出来なかった。
「リチャード、こちらはこの家の庭師のアダム・クラークさんだ」
「どうも捜査ご苦労さまです」
アダム・クラークは庭仕事用の分厚い手袋を外すと、リチャードとレイと順番に握手を交わした。
アダムは三十代半ばぐらいの日焼けをした精悍な男性だった。黒い髪を短く刈り揃え、焦げ茶色の瞳が魅力的に輝いている。どこか人の良さげな愛嬌があり、初対面でも親近感を思わず抱いてしまう。服装はよれよれの薄汚れたTシャツにジーンズといういかにも庭仕事に相応しい格好だった。
「リチャード・ジョーンズ警部補です。こちらはレイモンド・ハーグリーブスさん。捜査に協力してもらっています」
「こちらの人は警察官じゃないんですか? 道理で刑事さんらしくないタイプの方だと思いました」
アダムは人好きのする笑顔でレイを見た。思わず引き込まれてしまうような、魅力のある表情だった。
「アダムさん、何度もすみませんが、昨晩の様子をもう一度お話して貰えますか?」
ハワードの問いに嫌な顔をするでもなく、アダムはすらすらと話し始めた。
「昨晩は夜10時には就寝しました。庭師の仕事は朝が早いんですよ。それに日中は体力仕事ですからね、もうその時間になると眠くて。大体いつもその時間には寝てしまうんです。だから事件が起きたことはまったく知りませんでした」
「今朝はどうされたんですか?」
リチャードは質問をしつつジャケットのポケットからメモを取り出すと、アダムの話を書き留める。
「今朝はいつも通り5時に起きて、すぐに庭の作業を始めました。朝食はいつも7時過ぎに屋敷のキッチンで食べます。あ、お話ししていませんでしたね。私はこの温室の裏にあるコテージに普段は寝泊まりしてるんです」
そう言ってアダムは温室の奥を指さした。リチャードがそちらを覗くと、温室の向こう側にこじんまりとした建物がガラス越しに見える。そこがアダムが普段暮らしているコテージなのだろう。
「事件を知ったときの状況は?」
「朝起きてから、いつも通り庭の見回りと掃除をして、その後作業をしようと温室に入ったら、薔薇の花がほぼ全部摘み取られていたのを見つけました。普段この温室には鍵をかけていないんです。この辺りは比較的犯罪も少なくて安全な地域ですし、まさか花を盗む人間がいるとは思ってもみませんでしたから。それに、こちらに置いてあるのはそんなに珍しい品種じゃありません。普通にガーデンセンターで購入出来るものばかりですからね。しかも苗ごとじゃなくて、花だけを摘み取るなんてびっくりしましたよ。どうしようか、としばらく思案していたら、屋敷から執事のフランクさんが温室に来たんです。旦那様が死んでるって」
アダムは目を伏せた。
「旦那様は薔薇がそれは大層お好きで……僕をここに雇ってくれたのも、薔薇の専門家だから、と言うことだったんですよ」
「薔薇の専門家というのは珍しいのですか?」
「いえ、そんなに珍しいことではないと思います。でも大抵の植物を扱う人間は、あまり専門を狭くしないんですよ。その方が就職先に困りませんから」
「なるほど……では、どうしてあなたは薔薇をご専門になさったんですか?」
リチャードはふと思い付いたように尋ねる。アダムの顔に一瞬戸惑いがあったような気がしたが、以前と同じように淀みなく答えた。
「小さい頃から薔薇が好きだったんです。……実は私は両親がいなくて、施設育ちなんですよ。その施設に綺麗な薔薇園がありましてね。小さい頃からシスターの薔薇の手入れの手伝いをしていたんです。シスターはとても優しい方で、本当に薔薇がお好きでした。私は彼女を実の母のように慕っていたんですよ。その後、年頃になって施設を出なくてはならなくなった時に、彼女からガーデナーになるといい、と勧められました。それで自分の行く道を決めたんです。ガーデナーとしての仕事を始めてからも、幼少時の思い出が忘れられなくて、薔薇を専門にするようになりました。英国は薔薇をメインにしているガーデンが多いですからね、意外と需要あるんですよ」
その時リチャードは彼の右腕の、丁度Tシャツの袖で見えるか見えないかの部分に、薔薇の黒い小さな刺青があることに気付いた。
「タトゥーは薔薇のお仕事をされるために彫られたんですか?」
「ああ、これですか」
アダムはTシャツの袖をちらり、とめくって見せてくれる。
「これ、タトゥーじゃないんですよ。よく間違えられるんですけど。珍しい形なんですが、痣なんです。生まれた時からあったそうです」
「本当に珍しいですね」
「これがあったから、薔薇が好きになったのかもしれないな、なんて思う時もありますよ」
アダムは腕の痣を愛おしそうに左手で撫でた。それを見ながらリチャードは質問を続ける。
「こちらでは、いつから働かれているんですか?」
「1年前です。その前は薔薇が有名なトラスト施設の専属ガーデナーをしていました。この屋敷の先代の庭師が亡くなり、旦那様が代わりを探していて、私に白羽の矢が立ったということでした」
「なるほど。今朝の話に戻りますが、フランクさんがこちらに来て、その後どうなさったんですか?」
「フランクさんと一緒に屋敷のダイニングホールに行きました。奥様が椅子に座って泣いておられて、その側に息子さんが呆然と立っていました。旦那様は暖炉の前に倒れていて……床一面に温室から盗まれた薔薇が撒き散らしてあったんです。一体何のためにそんなことをしたのだろう? と訝しみました。私が警察に電話をしたのか、とフランクさんに尋ねると、もうしたから間もなく来る、と言われて、その後はそちらの刑事さんが到着して捜査が始まったんです」
「そうでしたか。お話ありがとうございました。また別の捜査官が同じような質問を繰り返すかもしれませんが、ご協力をお願いします」
「何回も同じ話をしないといけないんですね。まるで試されてるようだ」
アダムは苦笑した。
「試している訳ではありませんよ。どんな事件の捜査でも、何回か同じ話をして貰うことになってるんです。何度か話しているうちに忘れていたことを、ふいに思い出したりすることもあるので。それに私と彼は部署が違うので、どちらにしても一度はお話して頂く必要がありましたから」
そうリチャードは言うとハワードの方を向いた。ハワードは邪魔をしないように黙って立っていた。
「警察って捜査の部署がそんなに色々あるんですか?」
「ええ、まあ」
リチャードは曖昧に答えを濁した。あまり警察の内部組織について、詳しい話を彼にしても仕方がないと思っていた。
「ああ、そう言えばアダムさん、屋敷内にある薔薇の絵はご存知ですか?」
「薔薇の絵? どんな絵でしょう? 私は普段屋敷はキッチン以外あまり出入りしませんし、絵には全然興味がないので知らないんです」
「そうですか、それなら構いません。お話ありがとうございました」
リチャードが話を終えると、三人は温室の外に出た。むっとした温室から外へ出ると一気に気温が低く感じる。
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