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第16話
リチャードはそう言ってカウンターに寄りかかると、紅茶を美味しそうに口にする。考えてみたら、朝バス停でカフェラテを飲んで以来何も口にしていなかった。
「あの、良かったらビスケットもありますけど」
ドロシーは立ち上がると、戸棚からビスケットが入った缶を取り出した。
「ああ、助かります。朝コーヒーを飲んだきり、何も食べてないんですよ」
リチャードは嬉しそうに、開けられた缶からビスケットを一枚取り出す。ハワードも「俺も空腹なんだよ」とビスケットを数枚手に取った。
「ドロシーさん、もしも可能でしたら、今朝の様子をお伺いしたいんですけど」
リチャードはビスケットを食べ終わると、メモとペンを取り出し尋ねる。
それを横目に見ながら、レイはビスケット缶の中から、チョコレートのかかったビスケットを一枚取り出してつまみ始めた。
ドロシーは紅茶のマグを両手で抱えて膝の上に載せると、ぽつぽつと語り出す。
「今朝は……いつも通り6時に起きて、朝食の準備をするためにキッチンに降りてきました。私はこの屋敷の三階部分に部屋を頂いています。使用人専用の階段がこのキッチンを出てすぐのところにありまして、私の部屋からはそこを使って降りてきますので、ダイニングホールの前を通ることがありません。ですから何が起っていたのかは、奥様の悲鳴が聞こえて、フランクさんがここへ来るまでまったく知りませんでした」
「奥さんの悲鳴が聞こえて、すぐにダイニングホールへは行かなかったのですか?」
「ええ。何が起っているのか分からず、ここで怖じ気づいて立ちすくんでおりました」
「そうですか。夜は何時にお部屋に上がられるんでしょう?」
「夜は10時にはベッドに入ります。昼間はやることが多くて疲れるものですから、朝までぐっすり眠っています」
「夜中に人が争っている音など聞かれませんでしたか?」
「いいえ、まったく。私の部屋は三階ですし、一階の音が聞こえることはありませんから」
「ドロシーさんは薔薇の絵について、何かご存知ですか?」
「薔薇の絵、ですか?」
「ええ。ダイニングホールに飾ってある薔薇の絵です」
「ああ、あの派手な絵ですね。飾ってあるのは知っていますが、薔薇が描いてあるな、ぐらいにしか思ってませんでした。私はあまり学がありませんから、詳しい事はなにも」
「そうですか、分かりました。……あの、ドロシーさんはいつからこちらのお屋敷で働いているんですか?」
リチャードの問いにドロシーがハッとしたような表情をする。
「もう、こちらは長いのですか?」
すぐに返答がないので、リチャードは再度問いかけた。彼の優しい声色にドロシーの態度がすこし和らぐ。
「ええ、もう随分になります。旦那様がこちらに大学を卒業して戻られるちょっと前からなので、40年近くこのお屋敷にお世話になっています。元々は旦那様のご両親に雇われたのが最初なんですよ」
当時のことを懐かしく思い返すような口調で、ドロシーはそう言った。今までの疲れ果てた表情が消え、まるで若い少女が恥じらうような顔つきになる。
きっとこの屋敷に雇われた時の気持ちに戻っているのだろう、とリチャードは思った。
ドロシーは人の良さそうな愛嬌のある表情を浮かべて話を続ける。本来の彼女はきっとこんな風なのであろう。
「あの頃は、このお屋敷もとても賑やかで楽しゅうございました。今よりも使用人の数も多かったですし、先代様も奥様もお優しくてとてもよいご主人でした。私は随分と長い間こちらでお世話になっていて、外の世界は知りません。今ではもう旦那様もいなくなってしまい、この先どうしてよいのやら」
「そうなんですか……あの、ご結婚はされなかったんですか?」
リチャードの問いに、ドロシーは顔を上げて彼の顔をじっと見る。そしておどおどとした様子で口を開く。
「あ、あの……結婚はとうとう機会がなくてすることはありませんでした」
「お子さんはいないんですか?」
今までだんまりを通していたレイが、唐突に質問を口にする。リチャードとハワードはレイに思わず視線を向けた。レイはそんな二人の視線を受けても、どこ吹く風と言った様子でドロシーの返答をじっと待っている。ドロシーはしばらくもじもじとしていたが、沈黙に耐えられなくなったようにようやく口を開いた。
「……子供はいました。可愛い男の子でした」
彼女の答えは過去形だった。レイは怯むことなく質問を続ける。
「お子さんは、今どちらに?」
「……死にました。生まれてすぐのことでした。……今もあの子の夢を見ることがあります。あの時どうして助けてあげられなかったのか、と」
ドロシーは俯いた。彼女の中できっと様々な後悔の念が渦巻いているのだろう。レイは彼女の答えを聞いて満足したのか、口を閉じて黙り込んだ。
「そうですか……どうぞあまりお気落としなさいませんように」
リチャードはドロシーの様子を見て、思わず気の毒になり慰めの言葉をかけた。そして彼女の手に抱えられたままだった空のマグをそっと受け取り、キッチンシンクに自分たちの分とまとめて置いた。
「ドロシーさん、執事の方はどちらにいるか心当たりはありますか?」
「多分、図書室においでだと思います。旦那様の身の回りの書類仕事などをなさる時のオフィスも兼ねていて、フランクさん専用のデスクがありますから。何も特別な用事がない時はいつもそこにいます」
「分かりました。お茶とビスケットごちそうさまでした」
リチャードはそう言ってキッチンを後にする。ハワードとレイも後について出てきた。
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