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第26話
リチャードが正面玄関のホールから外へ出ると、空はどんよりと今にも雨が降り出しそうな色に染まっていた。
「なんだか降ってきそうね。それじゃ後で」
セーラも外へ出てくると、二人にそう言って、一番端に停めていた白いハッチバックの小型車に乗り込んだ。それを横目に見ながら、リチャードは自分が乗ってきた黒いセダン車のドアを開け、運転席に座る。すでにレイは助手席に座り、シートベルトを締めていた。
「今日はお疲れ様でした。二度目の現場ですけど、何か分かりましたか?」
「まだはっきりしないことが幾つかある。香水の件も分かったらすぐに知らせて」
レイはそれきり黙り込んで、思索にふけっているようだった。リチャードは彼の邪魔をしないように、無言のまま運転を続けた。
黒い雲が空を覆い、ぽつり、と一滴雨粒が落ちてきたと思うと、あっという間に目の前が見えないほどの大雨になる。遠くに稲妻が走るのが見えた。
「ひどい降りになりましたね」
リチャードは速度を落とし、フォグランプを点ける。雨がひどくて辺りは真っ暗だ。時折どこかに雷が落ちて、一瞬だけ光が周囲を照らす。
どうにか車は無事にロンドン市内へ入り、テムズ川を越えてレイのギャラリーがある通りまで到着した。だが雨の降りは相変わらずひどい。ギャラリーの前にはすでに別の車が駐車していたので、少し離れた場所に車を停めた。
「レイ、降りるのをちょっと待って下さい」
車のギアをバックに入れて、サイドブレーキを引くとエンジンを止め、リチャードは自分が先に降車した。そして脱いで後部座席に置いてあった自分のジャケットを取り上げると、助手席を開けてレイが降りる際に濡れないよう、彼の頭の上にかけた。
「さ、急いで中に」
二人はギャラリーまで小走りに駆け寄る。この日はすでに、留守番をしていたローリーも帰宅しており、ギャラリーは閉まっていた。レイはポケットから鍵を取り出すとドアを開けて急いで中に入る。ギャラリーの中は最小限の常夜灯の明かりだけが灯っていた。薄暗い中、慣れた様子でレイは奥まで進むと、ギャラリー内の電気を点ける。ぱっと一瞬で室内が明るくなった。
ジャケットを頭からかけて貰っていたレイは濡れていなかったが、その分リチャードはずぶ濡れだった。綺麗に撫で付けていた金髪もすっかり乱れて水が滴っている。
「バックオフィスにタオルがあるから、来て」
レイはリチャードの濡れたジャケットを振って水滴を落とすと、側にあった来客用の椅子の背に掛けた。
レイに促されて初めてバックオフィスに入ったリチャードは、そこが意外にもきちんとした部屋だったのに驚いた。
事務用のデスクと書類用のキャビネ、大きめの書棚と簡易ベッドを兼ねたソファが置いてあり、隅には小さなキッチンまで備え付けられていた。
「たまに展覧会の準備が忙しいと、ここに手伝いのスタッフが宿泊することもあるから、一通りの物は揃えてあるんだ」
リチャードが珍しそうに周囲を見回しているのを見て、レイが説明する。
「随分濡れちゃったね」
レイが大きめのタオルを使って、リチャードの濡れた髪の水を拭き取る。リチャードの方がレイよりも頭一つ分背が高いので、レイが彼を見上げるような形になった。レイの榛色の瞳が潤んだように、じっとリチャードを見つめる。
「いつもみたいにきちんとしてる髪型もいいけど、ラフなのもすごく良く似合うよ。きっと、どんな髪型でもリチャードは素敵だよ」
突然レイにそんな風に言われて、リチャードは戸惑う。たった二人きりで密閉された空間にいる親密さが、彼にそんな言葉を言わせたのだろうか。これまでの彼とはまったく違う雰囲気に、リチャードは動揺した。どうしてそんなことを自分に言うのか、リチャードにはレイの真意がまったく掴めない。
そんなリチャードの気持ちを知ってか知らずか、レイはまるで独り言のように言葉を継ぐ。
「……でも本当に良かった。リチャードがAACUに来てくれて。きっとこの事件もすぐに解決するよ。リチャード、とっても優秀だから」
レイはそう言うと、リチャードに向けて笑みを向ける。その顔は今までにリチャードが見たことがないような愛らしい表情だった。思わずリチャードの胸の鼓動が高鳴る。
「叔父さんに頼んだ甲斐があったよ」
レイはリチャードの髪を優しくタオルで拭きながら言う。だが、その一言がリチャードの心に引っ掛かった。
「レイ……それは……どういう意味ですか?」
リチャードの声は震えていた。それを聞いてレイがハッとなる。
「前にも言ってましたよね……? 俺が上司と喧嘩したのが原因でAACUに飛ばされたんだ、って言ったら、そんなことぐらいで左遷なんかされるかな、って。あなたの元に送られるために俺がこの部署に異動させられた、とも言ってた。……あなたは、何か知ってるんですか? もし知ってるんだったら、正直に言ってくれませんか?」
「……知らない。僕は何も知らないから」
レイがそう言うのと同時に、リチャードはレイの両手首を掴むとソファに押し倒した。
「あっ、い、痛いよ、リチャード」
痛がるレイの言葉を無視して、リチャードはレイにのし掛かる。
「嘘だ、きみは何か知ってる。隠さずに本当のことを言ってくれ」
「……叔父さんに優秀な人材が欲しいって言っただけだよ。それの何が悪いの?」
「きみの発言がどれだけの影響力があるのか、理解しているのか?」
「分からないよ……叔父さんだって、自分の肝入りで発足したAACUが5年目にもなるのに、大きな実績を上げられないから焦ってたんだ。だから梃子入れのために、優秀なスタッフを入れた方がいいんじゃないの、って僕が言ったんだ」
「部外者のくせに、そんな無責任なことよく言えるな」
「無責任なんかじゃないし、僕は部外者でもないよ」
「だからって人のキャリアをめちゃくちゃにする権利はきみにはないだろう? 人のことを弄んで楽しかったのか?」
「違うよ! 弄んでなんかないよ! 僕はずっと……あなたが欲しかったんだ……」
「……どういうことだ?」
リチャードは訳が分からない、と言う顔で尋ねる。レイは痛みに顔を歪めながら言った。
「……僕が叔父さんにリチャードが欲しい、って言ったんだ」
「俺のことを以前から知ってたのか?」
「……知ってたよ。5年前から」
「5年……前?」
リチャードの動きが止まる。
「5年前、ヘンドンの卒業セレモニーに、警視総監に就任したばかりの叔父さんと一緒に参列してたんだ。その時にあなたを見たんだよ」
リチャードの表情が固まる。5年前の卒業セレモニーの日のことを思い出そうとしていた。あの日参列していた警視総監の隣にレイはいたのだろうか? 思い出そうとしても記憶がまったくなかった。
レイは痛みを堪えながら、真っ直ぐにリチャードの顔を見つめて言う。
「あの時……ユニフォームを着たあなたを見た時に、なんて素敵な人なんだろうって思った。ヘンドンの校長にあなたのことを尋ねたら、今年度の首席だって誇らしげに教えてくれたんだ。叔父さんにリチャードをAACUに引き抜けないか、って聞いたけど、すでに特別犯罪捜査部への配属が決まっているから無理だって言われて……それ以来ずっとあなたのことが忘れられなくて……ずっと想い続けてきたんだ。……僕はリチャードのことが好きなんだよ」
「……そんな……そんな理由で、きみは俺から仕事のキャリアを奪ったのか……?」
リチャードの声はかすれていた。ショックのあまり前後の見境がつかなくなっていた。リチャードはレイの肩を両手でぐい、とソファに押しつける。
「痛っ……そ、そんなつもりじゃなかったんだ」
痛みに顔を歪ませながら、いやいやするようにレイは顔を左右に振る。
「そう言えば俺がきみを許すとでも? ……俺はどうしたらいいんだよ? きみが望むようにしてやればいいのか?」
リチャードは、無理矢理レイのシャツのボタンを引きちぎるようにして脱がせる。あっという間にレイの華奢な上半身が剥き出しになった。
「い、いやっ、止めてよ」
「きみは俺に抱いて欲しいんだろう?」
リチャードの手が荒々しくレイの体をまさぐり下部へ伸びる。敏感な部分に触れられてレイの体がびくん、と反応する。恥ずかしさに紅潮した顔を見られなくなくて、彼は必死に顔をリチャードから背けようとする。リチャードは容赦なくレイのブラックジーンズを引き下ろした。
「や……止めて……」
リチャードは自暴自棄になっていた。自分がこの5年の間に築き上げてきたものが、耳元でがらがらと崩れ去っていく音を聞いていた。
確かに上司とはそりが合わなかった。だがそれを除けばリチャードにとって、日々の仕事は彼にとって何物にも代えがたい大切なものだった。それをレイは自分の望みのために、警視総監の力を使ってリチャードから奪い去ったのだ。許せなかった。このままレイの思うがままにAACUに埋もれるのか……それとも。
リチャードは警察の仕事を続けるべきなのか迷っていた。自分はもう去るべき存在なのではないか、と密かに思っていた。
ならば……警察を辞めるのなら……
リチャードは苦々しい思いを抱えながら、レイの白い首筋に顔を埋め、噛みつくように激しくキスをする。レイはきつく目を閉じて苦しそうに呼吸をしていた。それを見て、もっと痛めつけてやりたい、という残酷な気持ちがむくりと頭をもたげた。リチャードは滑らかな、まるで大理石の彫像のようなレイの肌に指を滑らせる。吸い付くようなその肌に触れる度に、リチャードは欲情する気持ちを抑えられなかった。
「……いやっ、だめ……」
レイは身動きをすることが出来ずに、せめてもの抵抗をするように小さく喘ぐ。レイはリチャードに全体重を載せられ、動くことがまったく出来ず、ただ彼の手に弄ばれるがままになっていた。リチャードの体の下で、震えながらレイが絞り出すような声で言う。
「……リチャード、こんなのレイプと変わらないよ……」
リチャードが、その言葉に突然我に返ってレイの顔を見ると、彼の双眸から止めどなく涙が溢れていた。
「す、すまない……」
レイの涙を見た途端に、リチャードは正気に戻る。
――俺は何てことをしたんだ……
いくらレイがリチャードのキャリアを邪魔したのだとしても、そのことでリチャードがレイを好きにしてもいいという理由にはならない。ましてや彼は警察官なのだから、そんな理性のかけらもないような行為を、正当化出来る筈もなかった。
リチャードはゆっくりと体を起こすと、床に落ちていたシャツを拾い上げ、横になって肩で息をしているレイの体にそっと掛ける。
「レイ、悪かった」
リチャードは、レイの涙を拭こうと手を伸ばす。だがレイはびくっと怯えたように体を固くする。その様子を見て、リチャードの心に罪悪感が広がった。
そのまま彼は立ち上がり、黙ってバックオフィスを出ると、椅子に掛けられたままだった自分の濡れたジャケットを掴み、レイのギャラリーを後にした。
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