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第27話

 外に出るとすでに雨は止んでいた。  リチャードは車に乗り込むと、呆然として座席に深く座り背を凭れかけ、両手で顔を覆った。何もかもがぼんやりとして、悪い夢を見ているようだった。ポケットから携帯電話を取り出すと、登録してあった名前を押す。数回コールがあった後に相手が電話に出た。 「リチャード、遅いじゃない。どこにいるの?」 「セーラ……悪いんだけど、スペンサー警部に具合が悪いから、このまま直帰するって伝えてくれないか?」 「何? 調子悪いの? 大丈夫?」 「ああ、平気だ。……セーラ、話したいことがあるんだけど、ちょっと出て来られる?」 「いいけど……何かあったの?」 「今は話せない。オフィスの斜め前にあるパブまで来てくれる? 駐車場に車を置いて行くから、少し待たせるかもしれないけど」 「いいわよ。店の奥の方にいると思うから探して」 「分かった」  リチャードは通話を終えると車を出した。  あれだけ激しい雨が降っていたのが嘘のように、静かな夜だった。黒い雲の切れ間から欠けた月が望める。  リチャードは、ロンドン警視庁の地下駐車場に車を停めると、そこから真っ直ぐに待ち合わせ場所のパブへと向かう。スペンサー警部には、きっとセーラが上手く説明してくれているだろう。リチャードはこんな気分のまま、上司と顔を合わせる気にはとてもなれなかった。  まるで悪夢の中を彷徨っているような最悪の気分で、庁舎の建物の斜め前にあるパブへ入る。カウンターでワンパイントのラガービールを買うと、セーラの姿を探す。店内は仕事終わりに一杯飲む客達で賑わっていた。混雑する店内を人を縫うように奥まで進むと、突き当たりの目立たない場所に目的の人物を見つける。 「セーラ」  リチャードが声をかけると、ぼんやりとしていた彼女は視線を上げ、心配した顔で彼を見つめる。 「どうしたの? 何があったの?」  リチャードはすぐには答えずに、セーラの向かいに置いてあったスツールに腰を下ろしテーブルにパイントグラスを載せた。その表情があまりにも思い詰めたものだったからか、セーラは声を潜めて再度「リチャード、どうしたの?」と同じ質問を繰り返す。 「……俺、仕事クビになるかも」 「は? どういうこと?」  セーラは驚いて、まじまじとリチャードの顔を見つめる。 「彼を……レイを襲っちゃったんだよ」 「……え?」 「俺がAACUに異動になったのは、レイが警視総監に進言したからだったんだ。俺が上司と喧嘩したのが原因じゃなかったんだ」 「どうしてそれを?」 「……レイが偶然口を滑らせたんだよ。しかもあんな理由で俺の仕事のキャリアを……」 「あんな理由ってどんな理由よ?」 「レイが俺を総監に推薦したのは、5年前ヘンドンの卒業セレモニーで俺を見て、それからずっと俺のことが好きだったからだって……」 「……リチャード」  リチャードは悔しそうな表情でグラスを呷る。まだ気持ちが落ち着かない。目の前のセーラは黙ったまま、リチャードの次の言葉を待っていた。 「そんな理由で、俺は特捜からAACUに飛ばされたんだよ? 信じられるか?」 「それでレイモンドくんを襲ったの?」 「抱いて欲しいんだったら、望み通りに抱いてやるって……」 「なにそれ? まさか、レイモンドくんのこと無理矢理最後まで……」 「そっ、そこまではしてないよ。俺にだって一応理性はあるから……」 「それにしたって、相手の同意がない性行為は犯罪なのよ? 警察官ならそれくらい分かってるんでしょう?」  セーラは厳しい調子でリチャードに言う。リチャードは言われるがまま黙っていた。言われても仕方がないことを自分はしたのだ、と理解していた。 「それで……レイモンドくんはどうしたの?」 「……泣いてた」 「あ、当たり前でしょう? だってずっと好きだった相手にそんな真似されて、泣かない訳ないじゃない! ちゃんと謝ったの?」 「一応謝った……つもりだったんだけど」 「何なのよ、それ。つもりじゃ謝ったうちに入らないわよ。まさかと思うけど、彼のこと放ったまま来たんじゃないでしょうね?」  リチャードは黙って項垂れた。 「ああ、もう。どうしようもない馬鹿ね」 「だって、俺があそこにそのままいても何も出来なかったし……」 「レイモンドくんは、リチャードのことがずっと好きだったんでしょう? 誠心誠意謝って許しを乞うべきだったのよ? なんでそういうこと分からないかなあ。本当にリチャードって人の心の動きに鈍感だよね」 「……分かってるよ」 「分かってない。警察辞めるだけじゃ済まないわよ? 相手は警視総監の甥なのよ? 敏腕弁護士雇って訴えられたらどうするの? 警察官辞職どころか、世間から抹殺されるわよ?」 「……抹殺?」 「そうでしょ? 警視総監の甥を襲った人間だなんて、世間から好奇の目で見られて普通に外を歩けなくなるわよ。それにどんな会社だってそんな人を好んで雇う訳ないでしょ」 「そう……だよな」  暗い顔で項垂れたままのリチャードに、畳みかけるようにセーラが問いかける。 「ねえ、それでリチャードはどうなのよ?」 「何が?」 「レイモンドくんのこと、どう思ってるの?」 「どう……って?」 「だって現場で見た時、二人共すごく息が合ってて良いコンビだったわよ? 今思えばレイモンドくんは、リチャードのことが好きだったんだから、息が合ってて当然だったのかもしれないけど。……そう言えば、今日の現場でレイモンドくんが私に対して、やたら冷たい態度だったのは、あれ、私に嫉妬してたのね。私がリチャードと仲良く話してたから。それだけレイモンドくんに好かれてるのよ? リチャードだって、現場ではとっても自然に彼と上手くやってたじゃない。本当はリチャードだって、レイモンドくんのこと好きなんじゃないの? それがどういう意味の好きかは別にしても」  セーラはリチャードを説得するような口調でそう言う。彼女は今リチャードを失う訳にはいかなかった。  彼女がAACUに配属されてから3年間、常に人手も能力があるスタッフも足りない状況で孤軍奮闘してきた。そんな中ようやくリチャードという助け船がやって来たのだ。こんなことで彼を失ってしまったら、また彼女は一人で戦わなくてはならなくなる。それだけは絶対に避けたかった。  今はどんな手を使ってでも、リチャードを引き止める。それがリチャードの真意とは違っていたとしても。  セーラはそう覚悟を決めていた。

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