29 / 42

第29話

 4.  目覚ましの音が部屋に響いている。リチャードは手を伸ばし、時計のボタンを押して音を止めた。薄目を開けるとカーテンの隙間から、ぼんやりとした朝の光が差し込んでいる。いつもと同じ朝。そしていつもと同じような一日がまた始まる……筈だった。  だがリチャードにとっては、いつもとはまったく違う朝だった。昨晩は夢現なまま自宅のフラットまで戻り、スーツを床に脱ぎ散らかすと、そのままベッドに横になってしまった。普段の几帳面な彼からは、とても考えられないような有様だった。  今朝は頭も体もだるくて、まるで全身を真綿で包まれているようだ。一瞬このまま休んでしまおうか、とも思う。だが昨晩セーラからしつこいくらいに、今朝はきちんと署に顔を出せ、と言われたのを思い出し、シャワーを浴びるために渋々起き上がる。  頭から思い切り熱い湯を浴びると、少し気持ちがしゃんとしてきた。  バスルームから出ると、手早く身支度を調える。床に脱ぎ散らかしたままの服を拾い、スーツはきちんとハンガーに掛け、シャツは洗濯機に突っ込む。ここ数日洗濯もまともにしてなかったので、今日は戻ったらやらないと、と思いながらネクタイを締めた。  そしてリヴィングルームのローテーブルの上に載せてあったIDカードや財布、通勤用のICカードなどをポケットに入れ、最後に携帯電話を手に取る。  履歴をチェックすると、セーラからメッセージが入っていた。 『ちゃんと来なさいよ!』 ――余程信用がないみたいだな。  リチャードは苦笑すると、携帯もジャケットのポケットに入れた。  自宅フラットの鍵と、自分用に貸与されている車の鍵は、玄関脇の壁のフックに掛けてある。それを手に取り、忘れ物がないか脳内で再度確認してからドアを閉めた。  上司のスペンサー警部に会うのは気が重かったが、セーラは何も言うな、自分も黙っている、と言っていた。しばらくの間は、何事もなかったかのように振る舞うのが正しいのだろう。  オフィスに到着するまでの間、リチャードは何も考えずにただぼんやりとバスに乗り、車窓の流れていく風景を眺めていた。  もしかしたら、こうしてロンドンの街並みを眺めながら通勤するのも、これが最後になるのかもしれない。頭の隅にちらり、とそんな考えが浮かぶ。自分がここまでやって来た道のりは決して楽なものではなかった。一つ一つの山を乗り越えて、ようやく自分が思うように活躍できる場を手に入れられた、とそう思っていた。  だがそんな思いも、ただの幻想に過ぎなかったのだ。  自分の軽率な行いで努力してきた全てを無駄にした、とリチャードは遅すぎる後悔に胸を痛めた。  冷静になって考えてみれば、もっと別の方法がいくらでもあった筈なのに、あの時の自分は我を失っていた。リチャードはその事を思い出すと、恥ずかしくていたたまれなくなる。  セーラはレイに謝りに行け、と言っていた。こういうことは早くすべきなのだろう。オフィスに顔を出したら、直ちに行くべきなのかもしれない。  気が付くと自分が降りるバス停だった。慌てて降車してロンドン警視庁の建物内へ入る。IDカードを使ってゲートを通り、リフトで3階へ。リフトの中には数人のスタッフがいたが、リチャードを一目見ると、彼の後ろでひそひそと何か話を始めた。 ――またつまらない噂話の的になってるのか……  もうこんなことは慣れっ子になっているつもりだったが、ここで働くようになって5年目。警部補にまで昇進した自分が、こうして未だつまらない話の種になることに、心底うんざりしていた。  しかしこの先レイの対応次第では、もうこんなこともなくなるのだ、とリチャードは思う。いや、自分がこの場にいなくなるだけで、噂話の種になることには変わりがないのだが。

ともだちにシェアしよう!