38 / 42

第38話

 二人は急いで屋敷へ戻る。フレンチウィンドウから中に入るが、ダイニングホールには誰もいない。次に大抵いつもドロシーがいるキッチンを覗いたが、そこにも彼女はいなかった。 「私、彼女の自室を見てくるわ」  セーラはそう言うと、ドロシーがいつも使っている使用人用の階段を駆け上がって行った。  リチャードはもう一度ダイニングホールを覗く。彼はその部屋に入った時に、何か違和感を感じていた。その違和感が何なのかを確認しておきたかったのだ。  ダイニングホールには誰もおらず、がらん、としていた。すでに鑑識の捜査は終了しているので、青と白のバリアテープは外されている。数日前には床一面に散っていた薔薇の花もすべて回収され、警察署で保管されていた。ただ微かに匂う薔薇の香りだけが、その場に名残を感じさせる。  そしてリチャードは、違和感の正体を見つけた。暖炉の上に飾られていた絵が外されていたのだ。そこにはかつて絵が掛かっていたのだと虚しく主張するように、広い空間がぽっかりと開いていた。  リチャードは、レイがこの家にある美術品を買い取って欲しい、と依頼を受けていたことを思い出した。多分ここに掛かっていた『薔薇の宴』もそのうちの一点なのだろう。殺人事件を喚起させるあの絵こそ、真っ先に家人が売りたくなる代物ではないだろうか。  特に偽装工作をする羽目になったアマンダとローレンスにとっては、目に入るたびにあの夜を思い出させる疫病神のような絵だ。きっと絵はさっさと降ろされ、買い取って貰うために梱包されて別室にでも移されたのだろう、とリチャードは思った。  一体ドロシーはどこへ行ったのだろう? とリチャードはダイニングホールから隣の広間へ移りドアを開けて部屋を覗く。ここにも誰もいない。アマンダとローレンスは自室へでも戻ったのだろう。そのまま玄関ホールを過ぎ、図書室を覗こうとした時だった。リチャードは微かに人の声が、部屋から漏れ聞こえてくることに気付いた。  声の主は二人。いつも図書室を使っている執事のフランクのものとは明らかに違う。  それで気が付いた。  あの声はレイのものだ。リチャードは、しばらく前からレイの姿を全く見ていない。彼は屋敷内で、美術品の値段鑑定をしている筈だった。だが、今まで見た部屋にはいなかった。ということは……間違いない、この部屋の中にいるのは彼だ。でももう一人は?  リチャードは部屋の中の人間の了解を得ずに、図書室のドアを思い切り開けた。 「レイ……」  レイは図書室の中で立ちすくんでいた。  その側にはキッチンナイフを持ったドロシー。ナイフの鋭い切っ先は、レイの喉元に突きつけられている。 「リ、リチャード……」  レイの顔は蒼白だった。少しでも動けば、その白い喉元に銀色のナイフが突き刺さりそうである。レイはフランクがいつも使っているデスクで、体を支えて動かないようにしていた。 「ドロシーさん、キッチンナイフをこちらへ渡して下さい」  リチャードは、彼女を刺激しないように冷静な声で言うと、ナイフを渡すようにと左手を差し出した。 「ダメよ。こいつは旦那様を狂わせた悪人だから、罰しないといけないの」  ドロシーは今までとは打って変わって、まるで別人のような表情でそう言った。そして狂ったように、ギラギラと光る焦げ茶色の瞳でレイを見つめる。 「レイが……一体何をしたと言うんですか?」  リチャードの背中に冷たい汗が流れる。 「こいつは、この薔薇の絵を旦那様に売りつけたのよ。この薔薇の絵が旦那様を狂わせた。これさえなければこの屋敷は平和だったのに」  ドロシーは、ローテーブルの上に載せられた『薔薇の宴』を憎々しげに見やった。 「ドロシーさんが、この絵をキッチンナイフで切り裂こうとしてたんだ……だから僕は止めようとしたんだよ」  レイが苦しそうにそう言う。少しでも動けばナイフが刺さる。

ともだちにシェアしよう!