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第40話

 ドロシーの目には狂気の色が宿っている。今や彼女は、部屋の中にいる誰も見ていなかった。ただ彼女がその空間に、たった一人で佇んでいるだけだった。すでに彼女の言葉は独白に近く、聴衆を期待している様子はまったくなかった。  「あの晩……私は寝付けなくて、紅茶を頂こうとキッチンに降りてきたんです。そうしたらダイニングホールの方から声が聞こえてきて……泥棒かと思ってそっと覗きに行ったんです。でもそこにいたのは旦那様とアダムでした」  リチャードには、もうすでにフィリップが殺された理由が分かりかけていた。 「旦那様はこともあろうに、自分の息子に向かって、抱いてくれと懇願していたんです。何てことでしょう……そんなことはあるまじき行いです。アダムは驚いて必死に誘いを断ると、逃げるように部屋を出て行きました。私はダイニングホールに入っていって旦那様に声をかけたんです。あの子があなたの息子だって知ってるんですか? って。旦那様は何と仰ったと思いますか? 知ってる、って言ったんですよ。知っていてあの子にあんないやらしいことを言ったんですよ? 許せませんでした。私からあの子を取り上げておいて、今度はそんな真似をするなんて……アダムにあんな色情狂の親子みたいな真似をさせるなんて、絶対に許せませんでした」 「……だから、殺したんですか?」 「だって、それしか止める方法はないでしょう? アダムはただの庭師です。一度断ったところで、雇い主から執拗に求められたら、それ以上断る術を持たないんですよ? それに、こんなことで警察は動いたりしないでしょう? 犯罪じゃないんですもの。だったら私があの子を守ってやるしかないじゃありませんか。35年前、私はあの子が連れ去られるのを、ただ黙って泣いて見ているしかありませんでした。それからずっと後悔してきたんです。だから今度はもうそんな気持ちにならないように行動したんですよ。……旦那様は私に背を向けて薔薇の絵を見ながら『私はこの絵が好きなんだよ。知っているか? この絵の中にいるローマ皇帝は私なんだ。好きなことを好きなようにやって何が悪い?』と私に言いました。ローマ皇帝だか何だか知りませんが、私にとっては何よりもアダムが大切でした。私は手近にあった花瓶を取り上げると、絵を見ている旦那様の頭めがけて打ちつけたんです。旦那様は何も言わずに倒れ込みました。その時にマントルピースの上に乗っていた香水瓶に手が触れて落ちたんです。部屋中が薔薇の香りに包まれました。私は恐ろしかった。絵の中のローズ様が笑って、私は全て見ているのよ、と言ってるような気がして。私は花瓶を拾い上げると自分のパジャマの裾で血を拭き取って、元の場所に戻しました。幸いそんなに血痕は付いてなかったのです。それから自分の部屋に戻って朝まで一睡もせずに過ごしました……」  ドロシーは話し終えると、一気に疲れた表情になった。キッチンナイフを持った手がぶるぶると震えている。リチャードはあまりもう猶予がないことを悟った。 「ドロシーさん、理由はよく分かりました。もうあなた一人で苦しむ必要はないんですよ。さあ、そのナイフをこちらに渡して下さい」 「嫌です! こいつと絵をめちゃくちゃにしてからじゃなきゃダメなんです。そうしないとローズ様の呪いが解けないんです!」 「くっ……」  ナイフの切っ先がレイの首筋に当たる。レイは身を反らせて避けようとしているが、もう逃げられるようなスペースがどこにもない。リチャードは苦しそうな表情の彼を見て、どう対処すればいいのか脳をフル回転させて考える。 「ドロシーさん、それならまずは絵を切り裂いたらどうですか? あなたはもう奥様の視線には、耐えられないんじゃないですか?」 「そうですね、もうローズ様に見られ続けるのはごめんです」  リチャードの言葉にドロシーがゆらり、と絵の方へ体を向けた。その瞬間リチャードは、ドロシーのナイフを奪おうと身を躍らせる。  ひゅっと音がしてナイフの切っ先が煌めいた。 「リチャード!」  レイの叫び声が図書室に響く。  カラン、と音がしてナイフが床に転がった。その瞬間、図書室のドアが開いてセーラが飛び込んでくる。ナイフを遠くへ蹴り飛ばし、ドロシーの腕を取って後ろに回すと、動けないような体勢に持ち込み、床に彼女の体を押しつけた。 「リチャード! 大丈夫なの?」  セーラはドロシーの両腕を後ろ手にして手錠を掛けると、リチャードに駆け寄った。 「……このスーツ高かったんだけどな」  リチャードは起き上がると、セーラにジャケットの前身頃を掴んで見せる。右半分の真ん中から下部分がすっぱりと切られていた。 「自分自身が切られないで……ジャケットぐらいで済んで本当に良かったわよ」  セーラはホッとした顔で言った。 「リチャード……」  リチャードはふいに、自分の背中がふんわりと温かくなったのを感じた。振り返って見ると、レイが背中に抱きついていた。 「良かった……僕、リチャードが刺されたと思ったから……」  レイの両目から涙が溢れて出していた。 「レイ、怪我はありませんでしたか?」  リチャードは向き直ると、そう尋ねる。レイは、ふるふると首を振った。 「僕は……平気」 「良かった。怪我がなくて」  リチャードはレイの白い首にそっと触れる。ナイフの切っ先が当たったのか、少し赤くなっていた。

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