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彩雲(過去編)
誰かが、僕のそばで泣いている。
しゃくり上げる高い声と鼻水をすする音が響いている。
そこにいるのは、誰?
聞きたくてもうまく身体が動かない。自分の身体なのに、ひどく重たく感じる。
ああ、そうだった。昨日も退勤直前に急患が入って、結局日付が変わるまで帰れなかったんだっけ。
まだ寝ていてもいいかな。もう一度意識を沈めようとする。
「はる、 」
ふゆくん? そこにいるの? 今なんて言ったの?
ふゆくんが、泣いてる?
薄暗い部屋の中。やっと開いたばかりの目で、視界はまだぼんやりしている。それでも押し潰したような声はよく聞こえた。
間違いない、ふゆくんだ。
どうして泣いているの、ふゆくん。聞きたいのに、うまく声が出ないよ。
何か悲しいことがあったの?
「大…夫、…………な?」
ほんとかなぁ。ふゆくん、無理するところあるから。
ぎこちなく動いた両腕で、目の前にあったふゆくんの頭を抱きしめた。汗をかいているのか、少し湿っている。
「泣かないで、ふゆくん」
驚いたのか、ふゆくんが身体をこわばらせた。安心させたくて、親が子どもにするように髪を撫でつける。
「大丈夫だよ。だから、ね」
君が泣かずに済むには、どうしたらいい? 僕にはこの身ひとつしかないのに。
「だいじょうぶ、じゃねえだろ……!」
ふゆくんの目からまた涙がこぼれ落ちる。ぽろ、と音が聞こえてきそうだった。
「だいじょうぶ、ぼくが、いっしょに……いる、から……」
そのあと何か聞こえたけれど、内容まではわからなかった。
意識が吸い込まれるように沈んで行ってしまったから。
〇◇〇◇
その日を境に、ふゆくんが足しげく僕の家に来るようになった、と思う。
というのも、毎日の激務で記憶がいまいち繋がっていないところがある。最近の僕は病院で患者さんを世話しているか、家でふゆくんに世話を焼かれているかのどちらかしかない、ような気がしてきた。
そのうち「異動届はもう出したのか」とか、「荷物まとめといたぞ」とか言われるようになって、それからまたしばらくしたら、いつの間にか引っ越しが終わっていた。
荷物を運び入れ終わった部屋の窓から、彩雲が見えた。ねえねえ、とふゆくんを呼ぶ。
「見て。彩雲だよ」
「彩雲?」
ふゆくんは僕の隣に立つと、指さした先を見つめた。
「あの虹色に光る雲がそう。彩雲が見えたら、いいことがある前触れなんだってさ」
母さんが昔そう言っていた。迷信かもしれないけど、ちょっとだけ信じてみようと思う。
「へえ。……きれいだな」
これまでのいきさつはよくわからなかったけれど、ふゆくんの晴れやかな横顔を見たら、気にしても仕方がなさそうだなと思った。
「あるといいね、いいこと」
「ある。絶対ある」
力強く答えるふゆくんに、びっくりした。『絶対』なんて、ふゆくんが一番嫌いそうな言葉なのに。
きょとんとしていると、やけに真剣な表情でふゆくんがこちらを向いて
「はると一緒だから」
と言った。
どきりとした。
彼の真剣な目つきが、表情が、立ち姿が、彩雲よりもずっときれいだったから。
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