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狐の嫁入り(過去編)

 その日は、変な天気だった。  陽が出ていて雲も少なかったのに、霧のような細かい雨が降っていた。傘がいると気付いたのは玄関を出てしばらくしてからだったから、走って取りに戻った。一本にするか二本にするか少し迷った。何かあったときに一緒に外に出られるよう、いつも使っている紺色の傘と、ビニール傘を持って行った。  はると連絡が取れない。  高校の同級生から、そのような旨のメッセージが届いたのは、ちょうど休みの日だった。出勤しなくていいからと、血圧の上昇に任せてゆっくり起き始めた午前十時すぎのことだ。  メッセージを送ってきた同級生とはるは、少し前からだらだらとメッセージのやりとりをしていたらしい。徐々にはるからの返信が遅くなっていき、そのうちぱたりと止んだという。仕事が忙しいのかと納得していたが、明日出かける約束をしているのにもかかわらず、何度電話をかけても出なかったらしい。  向こうはただの相談のつもりだったそうだ。それが偶然俺の休みと被ったから、救出作戦に乗り出した、というのが事の発端だった。  はると俺も高校時代の同級生で、今でも年に一、二度くらいは出かける仲だ。何年か前に、お互いの就職を祝って酒を呑んだ。はるは地元の大きな病院に就職し、すぐ近くの寮に入った。一方俺は都内のIT企業に就職。しばらくは実家にいるつもりだったが、通勤に不便だからと次の年に会社の近くに引っ越した。物理的に距離が離れたが、不思議と縁が切れることはなかった。  むしろ連絡をよこしてきたやつの方がよく覚えていない。おそらく共通の話題として俺の話がでたとかで、はるがまだ俺と繋がりがあるとか言ったのを同級生が覚えていて、俺に連絡してきた、そんなところだろう。  会社が社員に有給を取らせようと、勝手に決めた平日休み。当然、外を出歩く人はまばらだった。公園ではしゃぐ園児たちに、それを眺めて目を細めるお年寄り。のんびりした時間が流れる中、俺ひとりだけが焦っている。  足早に電車に乗りこむ。ドアが閉まった瞬間、救出手段を何も考えてきていないことに気づいた。  何も考えずなりゆきで飛び出してきた俺に、いったい何ができるのだろう。走り出した電車に押し流されるようにして、はるの住んでいる寮へと向かった。  がらがらの座席の一番端に座った。ぼんやりと外を見ると、遠くの山に雲が広くかかっていた。もう降らないかもしれないが、電車に置き忘れないようにと二本の傘を握りなおした。  メッセージアプリを開いて、はるとのやり取りを見返す。俺のメッセージに対しての返事のタイムスタンプが、日を追うごとに遅くなっていく。昨日の昼ごろに送ったメッセージには、既読すらついていない。まだ寝ているのだろうか。寝ているだけだったらいいのだが。  俺が着くまでにはるがスマホを見る可能性は低いが、一応「今から家行く」と送った。  電車に揺られること約30分。不安を抱えながらドアをくぐり、発車メロディーが流れるホームを後にした。  最寄駅から寮までは、地図アプリによると歩いて20分。まだ変な天気が続いている。今すぐ走っていきたいのに、傘を開いているからか、うまく走れない。苛立ちながら傘を閉じて、小走りにはるのもとへと向かった。  寮に着くころには、服が少し濡れて肌寒くなっていた。  インターホンを鳴らす。当然のように返事はない。  おそるおそるドアノブをひねり、ドアをひく。なんの抵抗もなくドアが開いた。鍵が開きっぱなしだ。  心臓が跳ね、呼吸が浅くなる。 「……中で、死んでるなよ」  命令口調のくせに弱々しく響いたそれは、祈りだったのかもしれない。  そのまま勢いよく戸を開ける。 「はる! 」  返事はない。代わりに暗い部屋が出迎える。捨てるつもりでまとめたであろうゴミ袋がふたつ並んでいる。電気をつけると、服があちこちに落ちていることに気づく。脱いだものなのか、すでに洗濯したものなのか、判別がつかない。  靴を脱いで上がり込む。  机の上には袋が置いてあり、中を見るとコンビニの惣菜が入っている。賞味期限はまだ切れていないから、昨日か一昨日あたりに買ってきたものかもしれない。  服を片づけられないどころか、買ってきた食べ物も食べられない、片付けられない。それほど疲れているのか。  肝心のはるはというと、ベッドでブランケットにくるまっている。眠っているようだ。壁に背を向けているから、すうすうと寝息が聞こえてくる。  はるの無事がわかった途端、緊張がほどけベッドサイドにへたり込んだ。  ここ一、二か月の様子を確認するため、もう一度メッセージアプリを開いた。検索窓に「疲れた」と入力すると、はるとのメッセージルームもヒットする。しかしマーカーがついているフキダシはほとんど自分のもので、それに対してはるは「おつかれさま」とか、「大変だったねぇ」などと発言している。スクロールしていっても、はるが愚痴や弱音を吐くことや、疲れを訴えることはしていなかった。どれだけタイムスタンプが遅れていっても、労いの言葉ばかりだ。  異常事態に気づけなかったことに加えて、今まではるに甘えていた自分に恥ずかしくなる。  顔を上げると、目に前にはるの顔があった。肌が荒れていて、マスクで擦れているのか顎周りのニキビが特にひどい。髪もぼさぼさだ。最後に切りに行ったのはいつ頃なのだろう。頬にかかった髪を、指の背でどける。眠っているのに、眉間にしわが寄っていた。寝苦しいのだろうか。それとも、悪い夢にうなされているのだろうか。  なすすべがない、とはこのことだ。 「はる。少し、ほんの少しでいいから、休もう。な? 」  口から出てくるテンプレ的な言葉。 「大丈夫、だいじょうぶだから」  俺が全部、なんとかしてやる。そう自分に言い聞かせたかったのかもしれない。眠っているはるには当然聞こえていないし、返事も期待していなかった。  なのに、頭を抱きしめられた。 「泣かないで、ふゆくん」  はるの言葉で、自分が涙を流していることに気づく。はるが俺の髪を撫でつけるから、涙がこぼれて止まらない。  こんなにぼろぼろになっても、他人の心配をするのかよ。 「大丈夫だから」  薄く笑った目の下に、クマがくっきりとついている。 「だいじょうぶ、じゃねえだろ……!」  沸いた鍋を倒したのかと思うほど、頬を伝う涙が熱い。 「だいじょうぶ、ぼくが、いっしょに……いる、から……」  そう言うと、頭に巻きつけた腕から力が抜け、はるはまた寝息を立て始めた。  俺はしばらく、その腕をほどけなかった。  一緒にいる。その言葉が、水たまりに投げ込まれた小石のように、脳内に波紋を広げていく。  こいつは何を思って、そんなことを言ったのだろう。どうしてそう、自分のことを後回しにしてでも相手のことを思いやれるんだ。  波紋は互いにぶつかって、複雑になっていった。  ここでうずくまったまま、考えこんでいても仕方がない。はるの腕をほどいて、よろよろと立ち上がった。はだけたブランケットをかけ直して、腕をしまってやる。少し表情が落ち着いたようにも見える。  できることを探して、手を動かすことにした。  買ってあった総菜を冷蔵庫に仕舞う。散らかった服は判別がつかないからと、全部洗濯した。シンクにあったコップを洗ったり、全然ごみのたまっていない排水溝の掃除をしたりした。俺が動き回っている間も、はるはお構いなしに眠り続けた。  家事は嫌いではない。手を動かしていると、余計な思考がそぎ落とされていく気がする。  今まで甘えていた分を、少しずつでも返していきたい。できれば、自分にできることで、はるを甘やかしてやりたい。今日みたく、ここに来て家のことを手伝うこともできる。それでも毎回片道一時間の移動は億劫だ。ちょうどテレワークの導入が近いな。年度の変わり目には、今住んでいるアパートの更新もある。……なんて、いくらなんでも自分にばかり都合がよすぎる話だ。はるが起きたら、きちんと相談しなくては。  最後のタオルを干し終えても、はるはまだ起きなかった。さっきへたり込んだ場所に、もう一度座る。 「はる、ここから引っ越さないか。んで、俺とルームシェアする」  返事はもちろん無い。そう思って、ベッドを背にして体育座りをし直した。 「いいね、おもしろそう」  かすれた声に驚いて振り返る。はるがのそのそと起き始めていた。目をこすったり、あくびをしたりしている。 「ふゆくんきてたんだ。……いらっしゃい」 「お、おう。オジャマシテマス……」  勝手に入ったことには触れず、カーテンを開けて眩しそうに目を細めている。 「おなかすいたなぁ。なんか、あったかなぁ」 「なんか作るか? ああでも、冷蔵庫空だったから買い物……」 「いいの? じゃあ、軽めのやつ。おまかせで」 「ん、わかった」  立ち上がって支度をしていると、はるもクローゼットを開けて何かし始めた。 「何してんの? 」 「着替え。買い物行くんだよね? 」 「そうだけど、はるは家で休んでろよ」 「練習だよ。ルームシェアの」  やっぱり聞こえていたらしい。しかも乗り気のようだ。今日初めて、頬が緩んだかもしれない。  結局、はるが着替え終わるまで待ってから、買い物に出かけた。まだ変な天気が続いているから、持ってきた傘を差しだしたら「僕も傘くらい持ってるよ」と笑われた。 「天気雨、だね」 「へぇ、初耳」 「別名は、狐の嫁入り」

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