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羽休めの場所(過去編)

「ただいまー」 「おかえり」  廊下のドアの向こう側から、ふゆくんの声が聞こえてきた。つい一か月ほど前までは一人暮らしをしていたから、返事があることにまだ慣れない。  今日は、というかここのところずっと、すごく疲れている。引っ越しもそうだけれど、ほぼ同じタイミングで小児科病棟に異動したことで、環境が一気に変わってしまった。仕事にも、家族以外との生活にも慣れていないせいで、疲れはたまるし、休むにも気を遣ってしまう。今日も今日とて、重い身体を自転車に乗せて帰ってきた。明日は休みだからか、家に着いたら一層身体が重くなった気がする。  手を洗ってリビングに続くドアを開けると、みそ汁と焼き魚の香りがした。ふゆくんがもう一度「おかえり」と言ってくれる。 「はる、メシどうする? 」 「……えっと、ちょっと疲れてるから、休んでから食べる」  僕は疲れがたまっていると、胃が食べ物を受け付けてくれないタイプだ。身体の疲れも心の疲れもすぐに胃腸に影響が出る。今日みたいな疲れ方だと、すぐにご飯が食べられない。 「ん、わかった」 「ごめんね、せっかく作ってくれてるのに」 「気にすんな。すぐ温め直せる」 「……ありがとう」  僕がそう言うと、ふゆくんはひらひらと手を振って、それきり会話は途切れた。  床に座るとそのまま寝ちゃいそうだから、少しの間だけふゆくんのソファに座らせてもらうことにした。リビングに置いてあるけれど、ふゆくんが前の部屋に住んでいた時から使っているし、今も彼はここで寝ている。「いつでも座っていいからな」と引っ越し初日に言われたけれど、ふゆくんの物だからと僕はなかなかその場所に座れずにいた。  ふゆくんのいるキッチンの方をうかがいながら、ダイニングテーブルから遠い方の端っこに腰かける。マットレスとしても使うためなのか、思っていたよりも固くて身体が沈み込まない。あんまり身体を預けたくなかったから、ちょっと気が楽だ。ふゆくんがいつも頭を向けている方らしく、シャンプーと同じ匂いがした。  ふゆくんはまだキッチンで何かしている。会話がないせいで、食器の音が大きく聞こえた。  何かしゃべらないと。話題の引き出しを探していると、ふゆくんがマグカップをふたつ持って、ソファに座った。ひとつを僕の目の前のローテーブルに置いて、もうひとつに口をつける。  何か、何でもいいからしゃべらなくちゃ。 「ええっと、今日はね」  言いかけると、置いてあった方のマグカップを渡された。紅茶の湯気の中に、蜂蜜の甘い香りがほんのりとする。  わけがわからなくて、ふゆくんとマグカップを交互に見る。そんな僕を一瞥すると、彼は目尻に皺を作った。 「今は無理にしゃべろうとしなくていい。それ飲んで落ち着いたら、聞いてやるから」  そう言うと、また一口飲んだ。僕もそれにならう。 「あちっ」  思ったより熱くて、カップから口を離す。舌をやけどしたみたいだ。 「大丈夫か?! ちょっと待ってろ」  席を離れると、水を持って戻ってきてくれた。 「ありがとう」 「入れたてなんだから、気をつけろよ」 「ごめんごめん。あんまりおいしそうだったからさ」  グラスをテーブルに置いたことん、という音で思い出した。 「疲れてたからかな、ふゆくんが熱いの平気なこと忘れてた」 「……そんなこと言ったことあったか? 」 「あるよ! ほら、高校の時にさ……」  よくある日常の、とりとめのない会話だった。寒さのきつい日に、学校に一台だけある自販機の前で、スープを買って飲んだ時のこと。ふゆくんが真剣な顔をして「覚えてない」とか言いながら、一生懸命思い出そうとしているところが可笑しかった。 「で、僕が猫舌だって言ったら、ふゆくんなんて言ったと思う? 」 「ぜんっぜん覚えてない」 「ひどいなぁ! 『猫舌って、舌の使い方がへたくそだかららしいぞ』って。覚えてないのもひどいけど、言い方も馬鹿にしたみたいでひどかった! 」 「記憶に、ございません」 「それ言うと罪が重くなるよ」  今度はふたりして笑った。高校時代にちょっとだけ戻ったような気がした。ふたりそろって大きく息を吐いたから、それも可笑しくてまた少し笑った。  ひとしきり笑ったら、睡魔が襲ってきた。いつの間にか背もたれに体重を預けている自分に、ちょっとだけ驚く。明日は休みだから、何時に起きても構わない。けれどここはふゆくんが寝る場所だから、自分のベッドに戻らなくちゃいけない。そんなことはわかっているのに、身体がいうことを聞いてくれない。 「はる。はーるー。自分のベッド行かなくていいのか」 「んー、もうちょっと」  起きたらご飯を食べて、それからベッドに行かないと。 「もうちょっと、ここに居させて」 「……わかった」  ふゆくんがソファを離れた。そのあと少しして、ソファの背もたれが倒れたらしい音がした。それから後のことは、よく覚えていない。 〇◇〇◇  結局、ふゆくんのベッドで朝を迎えた。いつものんびり起きてくるふゆくんに「もう十時になるぞ」と起こされたから、慌てて飛び起きた。  ふゆくんがソファの形に戻すと、昨日と同じ位置に座った。僕も隣に座るよう促されたから、それに従う。 「昨日は床で寝させちゃってごめんなさい」 「床でなんて寝てないけど」 「え? じゃあどこで? 」 「はるのベッド借りた」 「そうなんだ。よかった」  床で寝かせることにならなくてよかった。って、あれ? 「俺もベッドに変えよっかな」 「ど、どうして」 「結構寝心地よかった。いちいち背もたれ倒さなくてもいいしな」 「そうなんだ~? 」  ベッドを検索した画面をこっちに傾けながら、ふゆくんが「置く場所が……」とか「でも寝心地……」とか言っている。隣に座っているのに、やけに遠く聞こえた。 「はるが寝てるのって……、どうした。耳まで赤いけど。調子悪いのか? 」 「や、大丈夫。……たぶん」  一緒に住んでる高校の同級生と寝る場所を交換しただけなのに、どうしてこんなに恥ずかしいんだろう?

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