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第7話
3.
ドアが思い切りよく開いて「リチャード!」と聞き慣れた声がする。呼ばれて振り返ると、短いブラウンヘアと快活な表情が魅力的な男性が、数人の制服警官を引き連れて店に入ってくるところだった。
「ハワード、早かったな」
「10分で来るって言っただろ?」
にやり、とハワードは笑みを浮かべてリチャードを見る。
相変わらずだな、とリチャードはそんな彼の態度を見て思う。
リチャードが新人として特別犯罪捜査部に配属された後、周囲のスタッフが冷たく当たってくる中、彼だけが変わらぬ態度で接してくれた。そして、二人がただの同僚から親しい友人になるのに、そう長い時間は必要なかった。
「まったく、お前何やってるんだよ? 事件の第一発見者なんて、厄介なことに巻き込まれやがって」
「好き好んでなった訳じゃない」
「分かってるよ。一体どうしたんだ? 何があったんだよ」
白いポロシャツとジーンズというカジュアルな格好のハワードと、きっちりとしたダークグレーの三つ揃いのスーツを着込んだリチャードが並んでいると、とても二人が警察官の同僚同士だとは思えない。格好だけでなく性格もまるで正反対の二人だったが、これ以上ないというぐらい気が合う仕事仲間であり、友人でもある。軽口を叩き合うような会話だったが、すでに二人は捜査のウォーミングアップをこの時点から始めていた。
「今日の昼間、ここの店主のマルコム・ベイカー氏から電話があって、折り入って相談したいことがあるから店に来てくれって頼まれたんだ。ハワードはベイカー元教官は知ってるだろう?」
「ああ、仲間内なら知らない奴はいないだろ? 電話で聞いた時は驚いたよ。まさかベイカー教官が被害者だなんて。もしかして警察官時代に何か恨み買ってたとか、そういう話か? でもなんでお前に相談するんだ?」
「違うんだ。彼はどうやら商売関係で、トラブルを抱えていたらしい。それでAACUにいる俺のところに連絡してきたんだよ」
「そうか、アンティークってお前の部署の専門分野だもんな」
ハワードは、はたと気付いた様子で頷いた。そしてジーンズのポケットからメモ帳を取り出すと「で、発見時の状況は?」と警察官の顔に戻る。
「俺がここに着いたのは午後4時半頃。ドアは開いていた。ベイカーさんは5時に閉店するので、それまでに来て欲しがっていたんだ。だから俺は自分のシフトが終わった4時過ぎにMETの庁舎を出て、徒歩でここまで来た。店内に入ってすぐに声をかけたが、誰も返事をしないので変だな、と思って店の奥を見たら衝立の陰から彼の足が出ていたので、そこにいると気付いたんだ。衝立を動かすと、ベイカーさんがオリエンタルデザインのこの文机に覆い被さるようにして倒れていた。後頭部からは多量の出血が認められたので、体を動かさずに息をしているかだけを確認して、すぐに救急に電話した。凶器は分からない」
「おーい、サイモン!」
ハワードは、丁度ドアを開けて入って来た、白い全身を覆うプラスティック素材の服を着込みマスクをした鑑識課の男性を呼ぶ。
「被害者はこの机に覆い被さるようにして倒れていたそうだ。この辺り、重点的に調べておいてくれ」
「分かりました」
サイモンと呼ばれた鑑識課の若い男性は「おい、こっち写真」と入り口付近でカメラの準備をしている女性鑑識員に声を掛ける。
俄に現場が騒然としてきた。リチャードは「鑑識の邪魔になるな。あっちで話そうか」と入り口付近に場所を移動した。
「それで? ベイカー教官はどうしたんだ?」
「意識不明のまま病院に搬送されたよ。発見当時、彼が搬送される前の状態の写真を撮っておいたから、後でメールに添付して送っておく。……それにしてもハワード、彼はもう教官じゃないだろう?」
「ああ、何となく癖でな。それで彼の相談したい内容ってのは、何だったんだ?」
「先日、彼が買い取ったチッペンデールの文机とやらの支払いの件で揉めて、客とトラブってるって話だったんだ。それでその客が、もしかしたらロシアンマフィアと関わりがあるかもしれないから、話を聞いて欲しいってことだった」
「ロシアンマフィア? それは穏やかじゃないなあ……」
ハワードは露骨に嫌な顔をした。
ロンドンには、多くのロシア人が住んでいる。現政権と仲違いし命の危険を感じて移住した人々もいれば、逆に現政権のお陰で巨万の富を得て移住している人々もいる。そしてその中に紛れるようにして、多くのロシアンマフィアが流入しているのも、また事実だった。彼らは、主にロンドンの不動産や株などを、マネーロンダリングの手段として利用している。当然後ろ暗いビジネスに手を染めているからには、傷害や殺人といった物騒な事件を起こしやすい。
実際、METも年々増えるロシア関係の犯罪には手を焼いていた。なにせ、相手は一筋縄ではいかない共産主義国の人間だ。例え逮捕するのに充分な証拠を握ったとしても、容疑者に国境を越えてロシア側に逃げられてしまえば、もう逮捕の見込みはない。国が威信をかけて自国民を守り通そうとするからだ。ここにジレンマがあった。英国とロシア。国同士がプライドを賭けて常に敵対している。一個人の警察官に出来ることは、そう多くはなかった。そのせいで出来るだけ関わりたくない、と思っている捜査官の方が圧倒的多数だ。それだけに、ハワードが嫌な顔をするのも当然だった。
「で、そのチッペラータって何だ? ソーセージにそんな名前があったよな?」
「チッペラータじゃない。チッペンデールだよ。俺も詳しく知らないけど、多分机の種類か何かじゃないかな。文机だって言ってたから」
「ふうん、俺にはちんぷんかんぷんな話だな。そのチッペラータだか、チッペンデールだか知らないけど、それの支払いの件で揉めていた……と。なるほど」
ハワードはメモを書き終わると、顔を上げてにやり、とした。
「おい、あのコンサルタントの可愛い子ちゃんはどうしてるんだよ? こういうのってあの子の専門分野じゃないのか?」
リチャードは思いがけずレイの話が出たので、どきりとする。
「あ、ああ。そうだな。彼の意見を聞いてみないといけないから、明日にでもスペンサー警部に報告した後、正式に協力依頼を要請してみるよ」
「そっか。相手は警視総監殿の甥御さんだもんな。チーフのスペンサー警部を通してじゃないと、出馬要請も無理ってことか。俺たちみたいな下っ端は、相手にして貰えない高嶺の花って訳ね」
ハワードの言葉に、リチャードは内心穏やかではいられなかった。そんな高嶺の花とやらとまさか付き合ってるなんて、とてもじゃないが言えない。ましてや合い鍵まで持っていて、これから彼の家に行くところだなんて……
「あとは俺と鑑識に任せて、お前は帰って構わないぞ。スペンサー警部にだけは、連絡入れておけよ」
「いいのか?」
「……第一発見者のお前が容疑者だって言うなら別だけど、どこにも怪しい点がない上に警察官なんだし、もうここに拘束しておく理由が何もないだろう?」
「ここにいても捜査の邪魔になるってことか」
「そういう訳じゃない。だけどお前はもう特捜じゃなくてAACU所属なんだ。下手に捜査に首突っ込むと、うちのうるさいチーフに睨まれるだろ? 俺だって一応気を遣ってやってるんだぜ」
ハワードは苦笑した。
そうだな、とリチャードは納得する。自分はもはや特別犯罪捜査部の人間ではないのだ。METのお荷物部署AACUの課員であり、今回のような傷害事件の犯罪捜査の場合、特捜側から協力依頼がなければ自ら動く訳にはいかない。ハワードが言うように特捜のチーフ、クロスビー警部から目の敵にされるような真似は、極力控えておかねばならないのだ。
「悪いな、ハワード」
少し落ち込んだ表情でそう答えたリチャードに、ハワードは元気づけるように肩を叩く。
「捜査状況は俺がお前に逐一流してやるから心配するな。……また日を改めて飲みに行こうぜ」
「ああ、そうだな」
リチャードはハワードに挨拶をすると店を出た。
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