9 / 61

第9話

4.  ベイカーアンティーク店を出たその足で、リチャードはレイの家へ向かう。先週末にサマータイムが始まって、日中の時間が長くなってきたとはいえ、すでに彼が店を出た時点で辺りは夜の闇の中だった。  リチャードは店を出てすぐに、ハワードに言われた通り、スペンサー警部に報告だけ済ませておく。スペンサーは話を聞き終えると「ご苦労だったな。明日特捜の方からきっと捜査協力の依頼が来るだろうから、そうなったらレイモンドくんに連絡を取って、捜査協力を要請してみてくれ」と言った。  連絡を取るも何も、これからそのレイの家に行く途中である。リチャードは自分に恥じるところなんて何もない筈なのに、その事実をどこか後ろめたく感じていた。  それは彼らの関係があくまでも公に出来ない種類のものだから、というのが一番大きい。リチャードは現職の警察官であり、レイは現警視総監の甥である。彼らの関係が、もしも人の知るところとなればスキャンダルは免れない。  自分たちは何一つ悪くないのに、こそこそと隠れるような真似をしなくてはならないのを、リチャードは内心辛く感じていた。  ベイカーアンティーク店があるバークレーストリートから、レイの住居兼ギャラリーがあるホワイトキャッスルストリートまではすぐである。  ものの5分ほどで彼の家まで来ると、アイアン製の黒い洒落たデザインのゲートを開けて数段の階段を上り、グレーに塗られたドアの前に立つ。  リチャードのポケットの中には、このドアの鍵がある。  付き合って10ヶ月ほどが過ぎた頃、レイから渡された物だ。ある朝、彼はシリアルを食べながら「好きなように使って」と会話の最中に、さり気なく鍵をテーブルの上に置いた。  いつもながら押しつけがましくなく、相手に気を遣わせすぎないレイらしいスマートなやり方だった。  リチャードには、別に断る理由なんて何もなかった。むしろどこか他人を拒むような雰囲気を持つレイが、リチャードには自分の城である自宅の鍵を易々と渡したことに、驚きすら感じていた。 「いいのか?」  テーブルの上に載せられた鍵を見つめてリチャードが尋ねると、レイは微かに笑みを浮かべて「いいに決まってる」と答えた。  その口調は、もうとっくにそんなの分かってるくせに、何を今更、と言っているようにリチャードには聞こえた。  リチャードはポケットの中で鍵を弄びながら、もう片方の手でインターコムのボタンを押す。 「レイ? 俺だけど」  リチャードが声を掛けると「今、開けるから」とレイの声がして、すぐにドアの鍵が開く音がした。家の中に入って、左手にある階段を上がり、リヴィングルームへ行く。レイは大抵この時間は、リヴィングでワインを片手にのんびりしていることが多い。部屋に入ると、部屋の真ん中に置かれたブルーグレーの3人掛けの大きなソファの真ん中にゆったりと座り、ワイングラスを傾けながら、大型のアート本を膝に載せて捲っていた。 「お疲れさま。遅かったね……って言うか、鍵持ってるんでしょ? 何で使わなかったの?」 「レイが家の中にいるのが分かってて使うのって、何だか抵抗があって……」 「……リチャード、何言ってるの?」  レイは呆気に取られた表情でそう言う。 「だって、ここはレイの家だろう? それで俺が鍵を使って家の中に入るって……その、なんだか照れるっていうか、恥ずかしいっていうか」 「今までだって、勝手に鍵使って家に入ってたじゃないか」 「それは、レイが家の中にいない時だよ」 「今更照れる関係でもないんだから、次からは鍵使ってよ?」  レイは呆れた顔でそう言うと、目の前のコーヒーテーブルに置かれたワイングラスにロゼワインを注ぐ。そしてソファの自分の隣をぽんぽん、と叩いて「座ってよ」と言った。  リチャードはジャケットを脱いでソファの背に掛けると、レイの隣に座ってワイングラスを受け取り一口含む。 「疲れてるね。今日は忙しかったの?」 「……実は事件の第一発見者になっちゃってさ。まさかこんな目に遭うなんて思ってなかったから、正直疲れた」 「珍しいよね、リチャードが自分から疲れた、なんて言うの」 「ごめん、愚痴言うつもりはないんだけど」 「ううん、嬉しいよ。普段は全然自分の弱味見せないから」  レイはリチャードの肩に、頭を凭れかけさせる。  弱味を見せてくれ、と言っているのはレイの方なのに、そんな言葉とは裏腹に、まるで頼るかのような甘えた態度を取られて、思わずリチャードは胸をぎゅっと掴まれたような気持ちになる。レイのこういうところがとても可愛い、と思う。リチャードはレイの肩を優しく抱くと、ふわりと緩くカールした栗色の髪にキスをする。  このままベッドに連れ込んでもいいかな、とリチャードが思った時だった。 「で、事件って何?」  レイはリチャードの顔を見上げると、好奇心いっぱいの表情でそう尋ねる。  最初から訊き出そうという魂胆で、俺に甘えた演技をしてたのか? と一瞬リチャードは疑ったが、まあそれも彼らしいか、と思い直し、ベイカーアンティーク店で自分が遭遇した事件について簡単に説明する。 「ふうん、それでベイカーさんはどうなの? 助かりそうなの?」 「分からない。救急隊員に聞いてみたが、それは医者が判断することだから、と冷たくあしらわれたよ。まあ当然と言えば当然なんだけど」 「そっか……で、とりあえず今のところ捜査は特捜が担当してて、担当官があの人なんだ……」  レイは突然、面白くなさそうにがらりと表情を変える。 「……ハワードが気に入らないのか?」 「別に気に入らないんじゃないよ」  少しふて腐れたような表情で、レイは俯く。  そう言えば、とリチャードは思い出す。 ――前に俺のフラットに泊まりに来てたって聞いて、嫉妬してたんだっけ…… 「レイ」 「……何?」  リチャードは、名前を呼ばれ顔を上げたレイにキスをする。 「キスで誤魔化すつもり?」 「誤魔化してなんかないよ。俺の素直な気持ちを表現しただけなんだけど」  今の自分にはきみしかいないから、とリチャードは態度で伝えたつもりだった。レイは頬を赤らめて真っ直ぐにリチャードを見つめる。 「つまらないことでふて腐れてる、って思ったんだろ? でも……キスで誤魔化された訳じゃないから」 「分かってるよ」 「……話、続けて」  リチャードは、ベイカーが一瞬だけ意識を取り戻して「グラン」と呟いたことをレイに伝える。この言葉が頭からずっと離れない。何か犯人を指し示すヒントになっているのではないだろうか? と思っていた。 「グラン、ね。今のところそれだけを聞いても、一体何のことなんだかさっぱり分からないよ。これはもう少し捜査が進んだ時に考えるのがいいと思う。今の状態じゃ、あまりにも情報が少なすぎるよ」 「俺もそう思ってるんだ」 「それと? 何か僕に聞きたいことがあるんじゃないの?」 「……相変わらずレイは鋭いな」 「リチャードの顔見たらすぐに分かるよ」 「チッペンデールについて知りたいんだ」 「チッペンデール? OK、説明長くなると思うから、食事しながらにしよう? 僕、もうお腹空いて我慢出来ないから」  レイはそう言って、リチャードの返事を待たずにソファから立ち上がった。

ともだちにシェアしよう!