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第11話

5. 「リチャード、カトラリー出してくれる?」  キッチンの中に食欲をそそるにおいが充満している。レイはオーブンの中からトレイを取り出すと、キッチンカウンターの上に慎重に載せた。 「カトラリー、いつものでいい?」 「うん。シルバーのものにして。それと白のプレートも」 「了解」  レイはテーブルの真ん中に置いてある鉄製のトリヴェットの上に、オーブンから取り出した耐熱皿を載せる。リチャードはプレートを並べながら、耐熱皿を覗き込んだ。 「コテージパイ? それともシェファーズパイ?」 「コテージの方。牛肉にしたんだ。昨日から仕込んでおいたんだけど、今日リチャードが来てくれて良かった。僕一人だと少し多すぎるから」  コテージパイは、牛挽肉にマッシュルーム、人参、玉葱のみじん切りを加えて炒めた後、調味料を加えて煮込み、その上にマッシュしたポテトを蓋をするように載せて、オーブンで焼いたものだ。パイと名前がつけられているが、パイ生地は使われていない。  そしてシェファーズパイは牛肉ではなく、羊の挽肉を使う事からシェファーズ(羊飼い)の名前がつけられている。残りの材料や作り方は、コテージパイとまったく同じだ。  この二つは、英国家庭では人気のある定番のオーブン料理だった。  レイはリチャードのプレートに手際良く取り分けて、電子レンジで温めた冷凍グリンピースを脇に添えた。 「熱いうちに食べて」  リチャードは、レイがじっと自分が最初の一口目を入れるのを待っているのに気付いていた。彼は感想が聞きたいのだ。 「うん、美味しい」 「良かった」  ホッとした様子でレイは嬉しそうな笑顔をリチャードに向けて、自分も食べ始める。 「懐かしいな。ホームメイドのコテージパイなんて、食べるの何年ぶりかな。……母さんの得意料理だったんだ」  リチャードの言葉に、レイが驚いた表情で顔を上げる。 「……お母さんの話するの、初めてだね」 「そうだった? ……そうか、そうかもしれないな」  リチャードはレイにそう言われて、過去に置いてきた筈の思い出が自分の中に蘇ってくるのを感じていた。 ――母さん…… 「リチャード、遠慮せずにたくさん食べていいからね」 ――リチャード、我慢せずに食べたかったら、たくさん食べていいのよ?  レイの声と、記憶の中の母親の声が重なる。 「……リチャード、大丈夫? もしかして思い出したくないこと思い出させちゃった?」  気が付くと、レイが心配そうにリチャードの顔を覗き込んでいた。リチャードは慌てたように、笑顔を取り繕う。 「いや、何でもないんだ。……それよりも、チッペンデールについて教えてくれないか? その話が聞きたかったんだが……」 「そうだったね……」  レイは気を取り直し、リチャードに促されて説明を始める。 「チッペンデールというのは18世紀の家具職人、トーマス・チッペンデールが考案したデザインの家具の通称名なんだ。トーマスは英国北西部のヨーク出身で、最初は地元で商売をしていた。彼はジョージアン、ロココ、ネオクラッシック様式を自己流にアレンジして新しいデザインを創り出したんだ。1754年に『The Gentleman and Cabinet-maker's Director(紳士と家具師の為の指針)』通称『Director』(ダイレクター)と呼ばれる彼の家具デザインを集めた本を出版すると、それは多くの家具職人たちから熱烈に迎え入れられた。そしてその本を元に、彼のデザインをコピーした商品が多く作られるようになった。英国内だけじゃなく、アイルランドやポルトガル、ドイツやデンマークにまでその動きは広まり、果ては大西洋の向こう側、アメリカにまで到達したんだよ。それだけ当時の家具職人たちが、彼のデザインに心酔していたんだろうね」  レイは一旦話を休止すると、目の前に置かれていた水入りのコップに口をつける。そしておもむろに話を続けた。 「『Director』(ダイレクター)で名を成した彼は、満を持してロンドンへ進出する。会社は大成功だった。彼はその時々に流行した様式を、上手く自分のデザインに取り入れて、新しい家具を作り続けた。だが彼の死後に跡を継いだ息子には残念ながら、トーマスほどの才能はなくて、1813年に会社は破産し、その後チッペンデールの名で家具が作られることは、二度となかったんだ」 「なるほど……だとしたらチッペンデールというのは、希少価値があってかなり値の付く商品なんだな?」 「そうだね。元々18世紀の家具はあんまりマーケットに出回らないし、ましてやチッペンデールなんて尚更だよ。大方のマーケットに出てるチッペンデールと名の付く商品は、『Director』(ダイレクター)を元に作られたチッペンデールスタイルの商品であって、トーマス・チッペンデールが作った家具じゃない。もしも彼本人が手がけたと証明出来る家具がマーケットで扱われるとしたら、天文学的な数字の金額になるのは間違いないよ」  さすがだな、とリチャードは内心舌を巻く。チッペンデールについて聞きたい、と一言尋ねただけで、これだけの知識がすらすらと出てくるのだ。一体レイの頭の中はどうなっているのか? 今更ながら彼の知識の深さに感嘆せざるを得ない。 「トーマスの会社が作っていたチッペンデールの家具なら、今もステイツホールやマナーハウスに行けば展示してるところがあるから、実物を見られるよ。ロンドンでもチャイルド家の屋敷だった、オースタリーパークに行けば見られるけど」 「そうか。概略はよく分かったんだが、今回の事件とチッペンデールについての結びつきが、今一つはっきりしなくて……」 「ああ、ベイカーさんが巻き込まれていたトラブルの件について?」 「そもそもチッペンデールが、そんなに珍しいアンティークの商品なのに、簡単に手放したりするものなんだろうか?」 「それは、手放す人の事情によりけりなんじゃないの?」 「まあ、そうだろうな。だけど、そんなに珍しい家具だったら、手元に置いておきたいと思うのが人情じゃないのか?」 「そうかもしれないけど、価値が分からない人にとっては、ただの古臭い家具でしかないからね。そういう人がもしも遺産相続なんかで受け継いだとしても、本人にとっては何の価値もないから、却って売って現金にした方がいい、って思うかもしれないし」 「なるほど……」  リチャードは少し状況が掴めてきた。つまり、ベイカーはチッペンデールスタイルの文机を客から買い取ったものの、後日客があれはチッペンデールの会社が作った本物だから支払われた金額に納得がいかない、といちゃもんをつけてきた、という話だったのだろう。  携帯電話で通話した時、ベイカーはかなり興奮状態にあり、リチャードが何もチッペンデールについて知らないのにも関わらず、それを確認せずに捲し立てるように話すものだから、リチャードには内容がまったく理解出来ていなかったのだ。  レイにチッペンデールのレクチャーを受けて、ようやく背後関係が分かってきた。 ――明日、ハワードにチッペンデールの文机の購入元をあたって貰おう……  他にも、もしかするとビジネス上でのトラブルを抱えていた可能性を否定出来ないが、とりあえず今のところ最も怪しいのはこの件だった。  なにせ、ベイカー本人が警察に助けを求めてきていた話なのだから。 ――ロシアンマフィアの件も洗って貰わないとだな。  リチャードは、自分の中での捜査指針がまとまったことで、少し安心感を覚えていた。捜査はこれからだが、どこを目指せばいいのかが分からない状態では、不安しかない。 「ところで、事件現場の写真とかないの?」  レイに尋ねられて、リチャードは救急隊員が到着する前に、現場の写真を携帯電話で撮影しておいたのを思い出した。 「これなんだけど」  携帯を渡すと、レイはしばらくじっと見てから「チャイニーズチッペンデールか……」と呟いた。 「……これがチッペンデールの文机なのか?」  リチャードはレイの言葉に反応する。チッペンデールの文机がどんなものか知らなかったので、当然ながら現場で見た時にも気付かなかったのだ。 「知ってて写真、撮ったんじゃないの?」 「いや……ハワードに発見時の状態を見せる為に、ベイカーさんが救急隊員に運ばれる直前、撮影したおいただけなんだ」 「……そう」 「何か分かるか?」 「これだけじゃ詳細は何も分からないよ。実物を見ないと」 「そうだよな。何とか早急に実物を見られるよう手配するよ」 「うん。お願い」  やっぱりレイに会いに来て良かった、とリチャードは目の前に座る自分の守護天使を見つめてそう思った。

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