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第13話

6.  枕元の携帯が振動している。リチャードは手を伸ばしてベッドサイドテーブルの上から携帯を取り上げると、アラームのスイッチをオフにした。画面に表示されている時間は7時半。今からシャワーを浴び、身支度を調えたら、丁度良い出勤時間になるだろう。隣で眠っている愛らしい王子さまを起こさないように、そっとベッドを抜け出す。  手早くシャワーを浴び、レイの部屋の間借りしているワードローブからスーツを取り出す。昨日着ていたスーツは、きちんとハンガーにかけ直してレールに掛ける。シャツや下着、靴下など洗濯が必要な物はキッチンにある洗濯機へ入れておけば、後でレイがきちんとしておいてくれる。それだけでも随分助かるな、とリチャードはレイに感謝していた。  腕時計を見ると8時半を指していた。ゆっくり歩いても庁舎には9時には着くだろう。  この日も空はどんよりとしていて、気持ちが重くなる。  今にも降り出しそうな空を見ながら、昨晩レイからレクチャーしてもらった話を思い返す。とりあえずチッペンデールが、貴重なアンティークであるというのは理解した。そしてベイカーがそれを買い取る最中に、思いがけなくトラブルに巻き込まれたことも。  今朝はオフィスに行ったら、まずはハワードに昨日の鑑識の結果を聞くか……いや、その前にセーラに応援を頼むべきか……そう言えば、スペンサー警部がレイに連絡を取って協力要請するように、とも言っていたな、とリチャードは思い出した。  MET庁舎が見えてきたところで、ふと思い付いたように、リチャードは足を止める。そして携帯を取り出すと、ハワードの登録番号を押した。 「リチャード早いな。俺まだエンバンクメントの駅出たところなんだけど」  ハワードのちょっと慌てたような声が、電話の向こうからする。 「俺もまだ外だよ。MET庁舎の前の遊歩道のベンチにいるから、ちょっと寄ってくれ」 「了解、すぐ行く」  リチャードは大通りを渡り、テムズ川沿いの遊歩道に出る。コーヒーでも買おうかとキオスクを覗いたが、まだ時間が早いので開いていなかった。  まだこの時間は観光客もまばらなので、川を臨むように一定の間隔で置かれたベンチは全て空いている。適当に選んで座ると、目の前にゆったりと流れる灰色の川をぼんやりと見つめた。 「よう、朝から呼び出すなんて、どういう風の吹き回しだよ?」  後ろから突然声を掛けられ振り返ると、ハワードが立っていた。彼はリチャードの隣に座り、手にしていた紙製のカップを一つ差し出す。 「コーヒー。ラテだろ?」 「覚えてたのか」 「忘れる訳ないじゃないか。何年一緒に仕事してたと思ってるんだよ」  ハワードはふっと、表情を崩す。そして右手に持っていた自分のカップから、コーヒーをすすった。 「で、朝っぱらから何の用?」 「昨日あれから現場を捜索して、何か分かったかなと思って」 「後でオフィス行ってから、ちゃんと報告しようと思ってたのに。どうせ、うちのチーフお宅に協力要請するに決まってるし」 「分かってる。スペンサー警部も特捜から協力依頼が来るだろうからって、昨日言ってた」 「じゃ、何で……?」 「バイアスかかる前に、率直な意見交換しておきたかっただけだよ」 「バイアスって……チーフのことか?」 「他にも色々いるだろ?」 「根に持ってるなあ、お前」 「当たり前だろ。それこそあの部署で、俺が何年我慢し続けてきたと思ってるんだよ?」 「だけどさ、俺はそういう一員じゃないって、お前はよく知ってるだろうに」 「だから呼び出したんじゃないか」 「どういうことだよ……?」 「幾つかお前に教えておく情報があるってことだよ」 「捜査に有利になる話ってことか……」  ハワードが合点がいった顔で、目の前のテムズ川へ視線を向けた。 「ベイカー元教官が買い取ったチッペンデールの文机、俺が電話で相談を受けたあれが事件の元になってる可能性が高いから、まずは購入元を探し出して欲しい。チッペンデールっていうのは18世紀の家具職人の名前で、その名がつけられた家具は非常に高価で珍しい物だそうだから、貴族が元の持ち主かもしれない。普段はマナーハウスやステイツホールに置かれているような代物らしいし。その辺りは慎重に探った方が良さそうだから気を付けてくれ。それからその購入元が、ロシアンマフィアと関係がある可能性が高いから、その辺りも詳しくチェックして欲しいんだ。……あと昨日、一つ言わなかったことがある」 「言わなかったこと? 情報を隠匿してたのか?」 「ベイカー元教官が、一瞬だけ意識を取り戻して『グラン』って言葉を残したんだ」 「……何だそれ?」 「分からない。分からないから一晩考えてみたら分かるんじゃないか、と思って言わなかった。ただの譫言かもしれないし。だが考えてみても分からなかったし、もしかしたらこれが何か犯人を指し示す重要なヒントなのかもしれないから、お前には一応伝えておく」 「何だよ、もしその言葉の意味が分かってたら、俺に教えないつもりだったのか?」 「そういう訳じゃない。どっちにしても伝えるつもりだったよ」 「お前、昔からそういうずるいところあるよなあ」 「ずるいんじゃない。思慮深いんだ。不確定な情報を渡して、お前の捜査を混乱させるような真似したら悪いだろう?」 「後でなら何とでも言えるよな。分かった、グランが何なのかは気に掛けておくよ。……今ここで話した内容については、オフレコってことでいいんだな?」 「ああ。俺が話した情報は、すべてお前自身で探し出したことにしてくれ」 「了解。じゃ後で」  ハワードはベンチから立ち上がった。 「コーヒーご馳走様」 「リチャード、それは貸しだから。今度パブで一杯奢れよ」  ハワードの言葉に、リチャードは破顔する。 ――本当に……全然変わらないな。  背の高いハワードの後ろ姿が庁舎の中に消えたのを確認してから、リチャードはベンチを立った。

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