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第18話
8.
リチャードはハワードに内線電話で呼び出され、地下駐車場へ急いで行くと、すでに当の本人はMETの貸与車輌の中に乗り込んで待っていた。彼の車はシルバーのセダンだ。特捜配属時からずっと変わらず、リチャードも事件捜査の度に何度も同乗した懐かしい車だった。
「待たせたな」
リチャードが助手席のドアを開けて乗り込むと、ハワードはドアポケットに挿していた書類を抜き出して渡した。
「これから行く先の簡単な情報だ」
リチャードは、それを受け取るとすぐに目を通す。ハワードはエンジンを掛け車を出した。
「こうやってリチャードと車に乗ってると、一緒に仕事してた頃を思い出して、何だか懐かしくなるな」
「……俺が異動して、たった1年しか経ってないじゃないか」
「たかが1年でも大きな変化だよ。懐かしく感じたって不思議じゃないだろ?」
置いて行かれた立場の人間の方が、置いて行った人間よりも寂しく感じるものなのかもしれない、とリチャードは思う。
この場合、自分は置いて行った側であり、ハワードは置いて行かれた側だ。ハワードは今も同じ特捜で、リチャードがいた頃と同じように仕事をしている。異動した部署で新しい仕事を新鮮な気持ちでこなしているリチャードと、時間の過ぎ去る感覚が違っていても、決して不思議ではないのかもしれない。
リチャードは黙って書類に目を落とす。
「……このポール・ガートフィールドが、ベイカー元教官にチッペンデールの文机を売ったのか?」
「ベイカー元教官の帳簿によれば、そういうことらしい。そこにも書いてあるが、彼はガートフィールド家の次男坊で、爵位は長男である兄が継いでいる。兄はドーセット州にある屋敷に住んでいて、ロンドンへはたまにしか来ないようだな。弟であるポールはずっとロンドン住まいだ。今住んでいる家はガートフィールド家の物だが、父親が死んだ際に遺産として相続したらしい。……まったくあんなロンドンのど真ん中に住めるなんて、羨ましい話だよ」
ハワードは溜息をついた。彼はロンドン郊外にいまだに親と同居中である。現在のロンドンは、不動産の高騰でなかなか一人住まいをするのが難しかった。リチャードのように、一人でフラットを借りてロンドンの中心部に住める人間はごく一部だ。
「ドーセット州……」
「……あれ? そう言えば、お前ドーセットの方の出身だったよな?」
ハワードが急に思い出したように、リチャードに尋ねる。
「ああ、子供の頃ドーセット州に住んでいたんだ」
「懐かしいんじゃないのか?」
「……そうだな、最近は忙しいからあんまり昔を思い出して、懐かしがってる暇もないけど」
「それは俺も同じだよ」
「ところで、このポールって男、あまり品行方正とも思えないが」
「どうも、子供の頃から問題児だったみたいだな。在学していた名門の寄宿舎学校も、何度か放校されかかってるし、大学時代はドラッグ所持で逮捕されてる。しかも大学卒業後働いていた友人の会社で、3年前に横領がバレて逮捕された。この時は友人の会社オーナーが正式に告訴しなかったことから、放免されたけど、これは家を継いだ兄貴が裏で動いたからって噂もあるらしい」
「よくある話だな」
「ああ、それこそリチャードは何度も実際にそういう目に遭ってたもんな」
リチャードは1年前、自分が異動する切っ掛けになった、と勘違いしていた事件を思い出していた。それは世間で名の知れたとある人物が関わっているかもしれない、と噂される事件で、特捜内では誰も担当したがらず、結局リチャードが半ば押しつけられたような形で手がけたものであった。だが、彼はそんな事件であっても、決して嫌がること無く地道に捜査を続け、ようやく立件に持って行けるだけの証拠固めが出来てきた……と思った矢先だった。ある朝、出署すると上司であるクロスビー警部から突然呼び出され『手を引け』と一方的に命令されたのだ。腹を立てたリチャードは、今までの鬱憤も溜まっていたことから、クロスビー警部にきつく言い返してしまい、それが原因で大きな口論に発展してしまったのだった。
そしてその後すぐに辞令が下ったことから、リチャードはてっきりこの件が自分の異動の原因になっている、と思い込んでしまったのだ。実際には裏でレイが絡んでいたのだが、その時の彼はまったくその事情を知らず、後で真実を知って驚く羽目になったのだった。
――でも異動したお陰でレイと親しくなれたんだし、悪いことばかりでもなかったかな……
リチャードは、今朝ベッドに残してきたばかりの恋人の姿を脳裏に思い浮かべた。
――後で連絡してみよう。
スペンサー警部から、レイに捜査協力依頼を直接出来る権限を貰った、と伝えたら彼は何と言うだろう、喜んでくれるだろうか? リチャードはレイの返答を想像して胸が躍った。
車は順調にロンドン市内を走行している。今日はそれほど混んではいないようだ。リチャードは気持ちを切り替えた。今は目の前の事件に集中しなくてはならない。下手に動いて、また以前のように事件が揉み消されそうになどなったら敵わない。とにかく、こんな事は決して珍しい事例ではなく、日常茶飯事的にあるのだ、とハワードもリチャードこれまでの経験から、よく理解していた。それだけに、充分に気を遣って捜査にあたらなければならないだろう。浮ついた気持ちでいたら足元をすくわれる、そう思いリチャードは気を引き締めた。
「それで、このリストだけど……」
リチャードは、手にした用紙に書かれた名前の一覧とプロフィールを眺めながら、ハワードに質問する。
「同居人のリストだよ。ほら、お前がロシアンマフィアとの絡みを気にしてただろう? 一応チェックしてみたんだが、ポール・ガートフィールド本人と、マフィアの繋がりがどこにも見つからなかったんだ。それでもしかしたら、同居人に関係者がいるかもしれない、と思って探ってみたんだが、どうやら俺の勘が当たってたみたいなんだ」
「ポールの妻か?」
「エカテリーナ・ガートフィールド。名前から分かる通り、ロシア人だ。自称元ピアニストだが、それは嘘で、どうやら元高級コールガールというのが本当のところのようだ」
「なるほど、ロシアンマフィアとの繋がりがいかにもありそうな前歴だな」
「ざっと他の同居人についても説明しておくよ。レディ・マーゴ・ガートフィールド。前当主の妻でポールの母親だ。痴呆症を患っているんだが、良い医者がハーレーストリートにいるとかで、田舎の屋敷からロンドンの家に移されて同居している。グレン・ハートリー、ポールの遠縁の男で南アフリカから数年前に帰国して、居候してるらしい。仕事もせずにぶらぶらしていて、居候のくせにガールフレンドを引っ張り込んで一緒に暮らしてる。そのガールフレンドとやらが、スザンナ・アボッツ。彼女はパーソナルショッパーとか言う他人の買い物の世話をする仕事をしてるんだと。そんな人の買い物の世話なんかして、何が楽しいんだろうな?」
ハワードはそう言うと顔を顰める。
「まあ、世の中には自分で買いたい物が決められない人間もいるらしいから、いいんじゃないのか?」
「リチャードの言う通りで、スザンナのビジネスはかなり上手くいってるらしい。そんなんだったら居候やめて、二人で住めば良いのになあ。俺だったらそうするけど」
「ロンドンはレント代だって馬鹿にならないから、節約してるんじゃないのか?」
「そうなんだろうな。何にせよ羨ましい話だよ。……最後は、レディ・ガートフィールドの付き添い看護師のヴェロニク・マルタン、フランス人だ。彼女はプライベートで雇われていて、家に住み込みで面倒を見ている。家に住んでるのは以上の人間だ。この中で一番怪しいのは、妻のエカテリーナだろうな」
「確かにロシアンマフィアと繋がりがあるとすれば、彼女が一番可能性がありそうだな。バックグラウンドチェックはしてるのか?」
「念のために、リストにある全員のチェックをスタッフにやらせてるところだ。分かり次第、俺に連絡が入るようになってる」
「それまではこちらで分かる範囲で聴取しろ、ってことか」
「そういうこと。チーフも人使い荒いんだよな。全部分かってから行った方が、二度手間にならずに済むってのに」
ハワードは盛大に溜息をつくと「そこの角の家がそうだ。こんな所に住めるなんて、信じられない金持ちぶりだよな」と言って車を停めた。
この辺りはロンドンの中心部にあたり、そもそも不動産をこんな場所に所有出来るのが、特権階級だと言っているようなものだ。
レイもここからそう遠くないところに、ギャラリー兼住居を所有している。彼も同じような境遇にあるのだな、とリチャードはふと思う。レイの数代前までの家族は爵位を持っていたと聞いている。英国の爵位継承権は基本的に男子のみのため、レイのように時代が下ると次第に爵位が外れる家族が増えてくるのだ。
それでもレイの家は爵位がなくとも、財産を保つ術には優れていたらしく、今も田舎に屋敷があり、ロンドン市内にも幾つか不動産を所有しているらしい。多くの爵位が外れてしまった家は、その財産すら保つことが出来ずに破産したり、屋敷をトラスト財団に任せなくてはならなくなることが多い。
レイはいつも自分の生まれや家族に対して否定的な態度を取るが、そんな羽目に陥っていないだけでも、彼の家は大したものじゃないか、とリチャードは思っていた。
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