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第19話
9.
ロンドンの目抜き通りであるオックスフォードストリートから、一本脇に入った静かな通りにある一軒の由緒ある風情の店に、小柄で華奢な青年が慣れた様子で入って行く。ベージュのトレンチコートをふわりと軽く羽織って、コートの中には白いシンプルなコットンのシャツと、黒いストレートのブラックジーンズを身につけており、その足元は、黒の革のショートブーツ。シンプルだが、センス良くコーディネートされている。
通りを行く人々が思わず振り返って確かめてしまうような、華やかなオーラを纏った彼は、ふんわりと緩くカールした栗色の髪と綺麗な榛色の瞳の持ち主だった。
「こんにちは」
「おや、いらっしゃいハーグリーブスさん。久しぶりですね」
「最近ちょっと忙しかったから、なかなか来れなくて。いつものを貰えますか?」
レイは店内をぐるりと見回す。
古色蒼然とした佇まいの店の奥の正面には、コーヒー豆が詰められた四角い大きな銅褐色の缶がたくさん並べられた四段の棚があり、その左手には幾つもの大きな漆塗りの茶筒が、こちらも四段の棚にきっちりと並べて置かれていた。
そして正面の壁の上の方には、ロイヤルワラントの紋章が飾られていて、この店が英国王室御用達であることを示していた。
「モーニングブレンドのコーヒーは、フィルター用に挽きますか?」
「ううん、そのままで。自分で挽くから豆でいいよ」
「何グラムにしましょうか?」
「500グラムを二袋……あ、やっぱり三袋にしてくれるかな? そのうち一袋だけ、豆をペーパーフィルター用に挽いてくれる?」
「分かりました」
気の良さそうな年老いた店主は、手際よく缶からコーヒー豆を、スコップのような道具ですくって小袋に入れると、目の前にある創業当時から使っているという、歴史を感じさせる天秤で指定のグラム数に量る。
レイはこの店へ、定期的にコーヒーや紅茶を買い求めに来ていた。元々は警視総監である彼の叔父、ロバートが贔屓にしていた店だった。ロバートの家で飲んでいるコーヒーの銘柄が何なのかを尋ねた時に教えて貰って以来、レイは気に入ってコーヒーや紅茶を買いに来ている。すでに彼にとっては定番の味で、たまに違う店の紅茶やコーヒーを買っても、しばらくすると、またここへ同じ飲み慣れたものを買いに訪れていた。
「あといつもの紅茶も一袋お願いできるかな」
レイがそう言うと店主は心得た様子で「分かりました」と答えた。
コーヒー豆を袋に詰め終わると、店主は店の奥の別の部屋へ入って行き、すぐに茶色の小さな袋を持って出てきた。
「こちらでよろしいですね?」
「相変わらず香りがいいね。いつも思うけど、こんな良い品をどうして店頭に出さないの?」
店主が持つ茶色の小さな袋から、ふんわりと柑橘系の爽やかな香りが離れていても漂ってくる。レイは目を細めてその香りを愛でながら尋ねた。
「手が込んでいるので、元々あまり数を作れないんですよ。なので、うちをご贔屓にして下さるお得意様のうちでも、昔からのごく少数の特別なお客様にだけ、売らせて頂いてます」
「そうなの? 勿体ないね。こんな素敵な香りの紅茶を、他のお客さんは楽しめないなんて」
「ええ、もう少し数を作れるのなら、店頭に出してもいいんですけどね。……お支払いはカードで?」
「うん、カードでお願い」
レイはカードで支払いを手早く済ませると、店主からコーヒーと紅茶が入った紙袋を手渡される。手に取った瞬間、中からあの紅茶の爽やかで特徴のある良い香りがした。
店主は紙袋を渡した後、ふと思いだしたように口を開く。
「そうそう、新しいブレンドのコーヒーを作ってみたんですが、ちょっと試飲していきませんか?」
「いいの? ぜひ試してみたいな」
店主は店の入り口近くにある、最近作ったばかりのテイクアウェイ用のコーヒーカウンターに移動すると、早速コーヒーマシンに豆を挽いて入れ、コーヒーを淹れる。店内に淹れたてのコーヒーの香りが満ちて、レイは幸せな気持ちになった。
「このコーヒー、うちの店名をつけたブレンドにして販売しようかと考えているんですよ。ぜひ飲んで感想を聞かせて頂けますか?」
店主から渡されたカップを受け取ると、レイは一口飲んでみる。
「香りもいいし、酸味が少なくて飲みやすいよ。僕いつもミルクいっぱい入れるんだけど……入れてみてもいいかな?」
「どうぞ、どうぞ。こちらのピッチャーにミルクが入っていますから、お好きなだけ入れて下さい」
カウンターの上にはミルクが入ったピッチャーと砂糖壺、スプーンが何本か入ったガラスのコップが置かれていた。
レイはカップをカウンターに置くと、ミルクをたっぷり注ぎ入れる。
「あ、すみません、ハーグリーブスさん、お客さんが来たのでちょっと失礼します。そちらに座ってゆっくりコーヒー飲んでいって下さい」
店主はそういうと、店の奥へ入っていった客の後を追って、自分も紅茶とコーヒーの販売カウンターへ戻る。レイは壁側に置かれていた木製のベンチに腰を下ろすと、何の気なしに入ってきた客に目を遣る。
客は女性だった。20代後半ぐらいだろうか、オリーブグリーンのジャケットとペンシルスカートのスーツをスタイル良く着こなしていて、肩の下まで伸ばしたブラウンの髪は緩く巻いてあり、年齢の割りに知的で落ち着いた雰囲気を漂わせている。
レイは彼女のセンスある着こなしが気に入り、そのままコーヒーを飲みながら、一挙一動を見逃さないようじっと見つめる。
どうやら馴染の客らしく、しばらく店主とにこやかに談笑していたが、店主が「ちょっとお待ち下さい」と声をかけると奥の部屋に入っていった。
――あれ……?
レイは奥の部屋から出てきた店主が、先ほどと同じ小さな茶色い袋を手に持っているのを見て気になる。
「こちらでよろしいですね?」
「ええ、ありがとう。あの、悪いのだけれど、こちらの袋に入れてくれるかしら? それとこのカードを中に添えておきたいの。大切な人への特別なプレゼントだから」
女性はそう言うと、肩に掛けていた白い革のトートバッグから、紅茶の茶色い小袋が丁度収まる大きさのブルーの紙袋を取り出した。そして、濃い青い色の封筒とブルーのリボン。
その三つを店主に手渡す。店主は受け取ると、ブルーの紙袋の中に茶色い紅茶の小袋と、青い封筒を丁寧に入れて、手提げ部分にブルーのリボンをかける。
「これでよろしいでしょうか?」
「ええ、完璧だわ。どうもありがとう」
女性は支払いを済ませると、レイの前を通って急ぎ足で店を出て行った。
レイはじっとその女性の後ろ姿を見つめる。
彼女が通り過ぎた時、そのブルーの小さな紙袋の中から、あの柑橘系の特徴ある爽やかな香りが漂って来たのを、レイは間違いなく嗅ぎ取っていた。
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