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第22話
11.
街灯の明りが灯る西ロンドンの高級住宅街の一角に、ブラックキャブが停車する。中から降りたのはレイ。彼はリチャードのフラットを訪ねてきていた。
「お釣りは取っておいて」
レイはそう言って助手席側の窓から、中にいる運転手に20ポンド札を手渡す。運転手は「どうも」と愛想良く挨拶すると走り去った。
この辺りはすぐ近くに王立公園もあり、昔から富裕層に人気のエリアである。レイはいつもリチャードが、何故警察官の身分でこんな高級住宅街にあるフラットに住めるのか気になっていたが、彼が自分から理由を話さないので、レイ自身、無理に尋ねる気にはならなかった。いつか時期がきて彼が自分から話したいと思うまでは、そのままにしておこうと、そう思っていた。
鉄製のゲートを開けて中に入り、ドアノッカーをノックする。しん、と静まりかえった住宅街に金属製の音が響き渡る。
レイが誰かに見られたらどうしよう、とそわそわと気にしながら待っていると、すぐにドアが開いてリチャードが顔を出した。
「早かったね。入って」
いつもの優しい笑顔。レイはリチャードの顔を見るたびに、彼を好きでいられる幸せを心の底から感じていた。
「今日は仕事、忙しかったの?」
「ああ、例の件でね」
「チッペンデール?」
「そう」
二人は話しながら、ダイニングキッチンへ入った。
その瞬間、レイは突然自分の鼻先に特徴のある香りが漂って来て驚く。
――この香りは……
ぐるり、とキッチンを見回すと、キッチンカウンターの端に見覚えのある小さなブルーの紙袋が置いてあるのが目に入った。
――何であの紅茶が……リチャードの家にあるの?
レイの胸が不安で締め付けられる。不安の原因は分かっていた。
――すごく綺麗な女性だった……
あの店で紅茶を買い求めていた、オリーブグリーンのスーツを着ていたセンスの良い女性を思い出す。落ち着いた大人の美しい女性だった。自分みたいにどこか子供っぽさが残るような感じではなく……リチャードに本当に似合うのは自分なんかじゃなくて、きっとああいう女性なのに違いない……店で見かけた時に、知らず知らずのうちに自分の中にそういう考えがあったのを、今になってはっきりと自覚する。
自分のそんな不安な気持ちを払拭しようと、レイは何気ない風を装ってリチャードに尋ねた。
「すごく良い香りの紅茶だね、これどうしたの?」
リチャードはレイにそう尋ねられて、どきりとした表情を浮かべる。そして何でもないように「ああ、それ? セーラから貰ったんだ」と答えた。
――嘘。セーラじゃない。僕はあの店であの女性が買うのを見たんだ……
レイはリチャードの答えを聞いてショックを受ける。
リチャードはまさかレイが紅茶を買っているところに遭遇していたとは、想像すらしていなかったのに違いない。彼は咄嗟に誤魔化して、そう返答した。そしてリチャードは、慌てて取り繕うように「お腹空いただろう? デリで食事買って来たから食べよう?」と続けて言った。それがレイには、無理に彼の気を紅茶から逸らそうとしているようにしか聞こえなかった。
「レイ……」
リチャードはベッドに横たわるレイの髪を優しく梳きながら、覆い被さり唇を重ねる。レイはそれに応えるように両腕を彼の背中に回した。二人は舌を絡めながら深いキスを交わす。リチャードの手がレイの敏感な部分に触れた。
「あ……っ」
「声聞かせて。興奮するから」
リチャードに耳元でそう言われて、レイの頬が赤く染まる。
「……リチャードってば……ずるい」
「ずるくないよ。レイが可愛いから、俺もう限界なんだけど」
リチャードは柔らかく微笑むと、レイの首筋に顔を埋めてキスを繰り返す。
――リチャード……あの女性は一体誰なの? あの人、紅茶を買う時に『大切な人への特別なプレゼント』って言ってた。……大切な人ってリチャードのことなんだよね? 特別って何? どういう意味なの? あの女性の特別な存在ってことなの? リチャード……セーラから貰ったなんて、嘘をついて……どうして僕に本当のことを言ってくれなかったの?
「ああっ……んっ」
いつもよりも激しく求められて、レイの意識が一瞬飛ぶ。何故なのか、今夜のリチャードはいつもより、少し気分が荒れているようにレイは感じていた。
――あの女の人を想って僕のことを抱いてるの? 僕はあの女性の代わりなの? あの人が好きなの?
レイはリチャードに抱かれながら、そんなことを繰り返し考え、そして次第にその思考の深い沼から逃れられなくなる。
――いつか……リチャードが僕の元を去る日が来るかもしれない、っていつも思ってたけど……意外と早くそういう日が来るのかもしれない。元々リチャードはストレートで女性としか付き合ったことなかったし。僕と付き合ってくれたのなんて、奇跡みたいなものだったんだ。彼が僕の元を離れる時が来たら……その時は、僕は笑って彼の手を離してあげなくちゃいけないんだ……彼が幸せなら僕も幸せだから。
知らず知らずのうちに、レイの榛色の瞳から涙の粒がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
「レイ? どうした? どこか痛かった? 俺、きつくし過ぎた……?」
「あ……」
涙に気付いたリチャードが慌てたように、レイに尋ねる。レイはぼおっと焦点が定まらない眼差しで、リチャードを見つめていた。
「ち、違う……そうじゃないんだ。何でもないんだ……」
そう言いながらも、次から次へと涙が止めどなく溢れてくる。
――ごめんね。リチャードが悪い訳じゃないんだ。……僕はリチャードが幸せなら、僕自身の幸せなんてどうでもいい、って思ってた筈なのに、どうして? どうしてこんなに悲しいの? 僕はどうしたらいい?
「レイ、どうして泣いてるんだ? 何か気に障るようなことした?」
「ううん……違う。違うんだ……」
レイはあの女性が誰なのか聞きたかった。でもリチャードは敢えてレイの質問に『セーラから貰った』と嘘をついたのだ。何も隠す必要がないのであれば、女性について話してくれたであろうに、そうしなかったのは明らかに彼女の存在を、レイに知られたくなかったからに違いない。
その理由は……レイにはもう分かっていた。あの女性が、リチャードにとって特別な存在だからだ。
いつか切り出されるかもしれない別れの言葉を思っただけで、レイは涙が止らなかった。
「……お願い、ぎゅって抱き締めて」
レイは何とかそれだけを口にすると、リチャードの体に両腕回す。リチャードは黙って華奢なレイの体を抱き締めてくれた。
「リチャード……」
今はまだ彼は僕のものだから、とレイは心の中でそう自分に言い聞かせて、自分自身を慰めた。
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