23 / 61

第23話

 ある英国人スパイの告白・4  天井近くの小さく四角に切り取られた窓から、明るい陽射しが差し込んでいた。どうやら朝が来たらしい。一体どれくらいの時間、ここにこうしているのか分からない。相変わらず頭も足もずきずきと痛むし、体は熱を持っていた。もう死ぬんじゃないかと思って、目を閉じてみるものの、しばらくすると目が覚める。まだ死ぬな、ということか。自分は運が良いと思っていたが、これは本当に運が良いと言えるのか? 死なないのが運が良いとは限らないのだな、とようやくこの時に実感した。  こんなことになるのなら、いっそのこと、あの農地で頭を一思いに銃で吹き飛ばしてくれた方が良かった。そうすれば、うじうじといつまでも悩まずに済んだのに。  人の足音が近づいてくる。  それと共にドイツ語で会話する声が聞こえてきた。私は目を瞑って寝たふりをする。 「おい、お前はここから出ろ」  ドイツ語訛りの英語でそう言われた。  顔をゆっくりとそちらへ向けると、鉄格子の向こう側にドイツ兵が二人立っていた。一人が鍵束の中から、鍵を選び鍵穴に差し込んで鉄格子を開けた。そして側に立っていたもう一人が、機関銃をこちらに向けると、銃身をひょい、と上げて立てと身振りで合図する。 「立てない」  私は無愛想に一言だけそう言う。実際、左足の痛みがひどく、自分で立つのは無理だった。 「手間のかかる奴だ」  鍵束を持った方が腰のベルトに束を括り付けると、私の腕を取って立ち上がらせ肩を貸す。そして引き摺るようにして、暗い廊下を通り、別室へと連れて行った。  四角い無機質な部屋。  先ほどの独房とあまり変わらない。違うのはテーブルと椅子が置いてあることぐらいだ。  私が入って行くと、そこにはすでに先客がいた。  明らかに先ほどまでのドイツ兵たちよりも上の階級の兵士だった。軍帽から覗く金髪と抜けるように白い肌、そして冷たい青い瞳。総統閣下が好む典型的なアーリア人というところか。ちらり、と軍服に付けられた階級章に目を遣る。中尉……なるほど、こいつがこれから私の尋問をするんだな  私は無理矢理、中尉殿の向かいの椅子に座らされた。頭と足が痛くて、とても反抗しようという気にはなれない。全てされるがままだ。 「ここに連れてこられた理由は分かっているな?」  私は驚いて顔を上げる。彼の英語はキングスイングリッシュ(英国英語)だった。 「驚くには当たらないよ。私は英国育ちだからね。開戦前は英国に住んでいたんだ。こういう英語が話せるお陰で、総統閣下から重宝して頂いている。ドイツ人は英語が下手だからな」  彼はそう言って、意地悪な笑みを浮かべた。彼自身がドイツ人だと言うのに、まるで同胞を馬鹿にしているような表情だった。  その自信は一体どこから来ているのだ? 総統閣下とやらの寵愛が傲慢さを生み出しているのか? 自分と同じドイツ人を見下すようなそんな態度をとる奴が、同じ組織の中にいるなんて、他のドイツ兵は一体どう感じているのだ? それとも奴らは英語がまったく分からないのだろうか?   私を連れて来た鍵束係と機関銃の兵士は、ただ黙って無表情のまま入り口脇に立っていた。 「きみが英国のスパイだというのは、もうこちらではよく分かっている」  中尉は感情を一切表わさない声でそう言った。私は覚悟していた。すでに自分がスパイとはバレていると思っていた。だからそう言われたところで、特に慌てることもなかった。 「殺すのか?」 「……そう性急に答えを出さなくてもいい。とても面白いことを総統閣下が思い付かれてね。私がその役目を仰せつかったんだよ。きみにも悪い提案じゃないと思うな」  口の端に酷薄そうな笑いを浮かべて彼は言う。 「……どうするつもりだ」 「とても条件の良い話だよ。……きみに、こちらの犬になってもらいたいんだ」 「なっ……」  私は驚いて言葉に詰まった。  つまり私に祖国を売って、ドイツのスパイになれ、と奴は言っているのだ。 「お前は……私に国を売れと言うのか?」 「命は助かるぞ?」  奴の青い目が冷たく光る。こいつは私を試しているのだ。命と引き替えに我が祖国を裏切れと、そう言っているのだ。だが、私の答えは決まっている。私が愛する祖国を売るような、そんな卑怯な真似をする訳がないだろう? 「……ノー」 「ふうん、愛国心が強いんだねえ。いや、簡単にイエスと言って寝返るような人間は逆に信用出来ないからね。きみの第一テストは合格だよ」  私は顔を上げて、目の前のドイツ人将校を睨み付けた。奴の白い顔が興奮の為なのか、少し紅潮している。 「一つ、良い事を教えてあげるよ。きみが捕まる直前に小さな相棒に託した情報。あれはね、偽の情報なんだ。きみにわざと渡したんだよ。気付いてた?」 「……なっ……何だって? う、嘘だ……そんな、まさかあれが偽の情報だったなんて……」  私は驚いて、ただ呆然と青い瞳の冷酷な顔の男を見つめていた。 「嘘じゃない。その顔じゃ、全然気付いていなかったみたいだね。きみはすでにもう愛する祖国を裏切ったのさ。偽物の情報をわざわざ本国へ送り込んで、英国軍を不利な状況へ意図的に誘導したんだ。これを裏切りと言わずに何と言う?」  彼は楽しそうにははは、と勝ち誇ったように笑った。  金髪と青い瞳の悪魔は、私を地獄へ引き摺り落とそうとしている。必死に抵抗する私と悪魔の囁きに身を任せろ、と言う声の狭間でゆらゆらと気持ちが揺らぐ。  まさかあの情報が偽物だったなんて。もしかして、最初からこのために騙されていたということなのか。  私の運命は、すでにここに連れてこられる前に決まっていたのだ。私の自由な選択肢など何もなかった。私が選ぶ道はもう目の前に一つしか残されていなかったのだ。金髪と青い目の悪魔の提示する恐ろしい提案を私は受け入れるしかなかった。  私は悔恨の情に打ちのめされ、我が運命を呪った。  そう、あの夜荒れ果てた農地で鳩を放した瞬間に、命を捨ててまで守りたいと思っていた愛する祖国をすでに裏切っていた、という皮肉な運命を。

ともだちにシェアしよう!