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第25話

12.  静かな朝が訪れた。カーテンの隙間から差し込む光は弱々しい。今日もまたどんよりとした空模様らしい。毎日毎日こういう天気が続くと、気持ちも段々落ち込んでくるような気がする。一体いつになったら春らしい青空を望めるのか、とリチャードは思う。  なるべく音を立てないように、手早く身支度を整えるとリチャードはベッドでまだ眠っているレイの額にそっとキスをして、出勤のためにフラットを出た。  朝に弱いレイはリチャードが勤務の日は、いつも彼よりも後に起きて適当に過ごした後、自分のギャラリーに戻っていく。  リチャードはレイの家の合い鍵をすでに持っていたが、レイはリチャードのフラットの合い鍵は持っていない。だが、英国の家のドアは、外側から閉めた場合、内側のロックが自動的にかかる仕掛けなので、わざわざ外から鍵をかける必要はない。  そのため、リチャードはレイに今まで鍵を渡していなかった。これまでレイに欲しいとねだられなかったし、リチャードも何とはなしに渡しそびれて、ここまで来てしまったのだ。  自分はレイの家の合い鍵を持っているのに、自分が渡さないのはフェアではないのかな、とドアを閉める瞬間にふと考える。レイは自分から欲しい、とは言い出さないだろう。彼は他人から押し付けがましくされるのを嫌がるのと同じくらい、自分が他人に押し付けがましくするのを嫌っていた。 ――レイはどう思っているんだろう?  いまだに彼の本音が読めない時が往々にしてある。付き合って1年も経つのに、時折リチャードはレイを見失うような気がして不安になる。レイは自分の気持ちの弱い部分を、故意に隠して見せない。見せたら嫌われると思っているのかもしれない、とリチャードは感じていた。 ――とりあえずオフィス行かないと……  考え出すときりがない。  先ほどまで自分の腕の中にいたレイの温もりが、今も残っているような気がした。こんなにも誰か一人を愛しく思ったことはこれまでなかった。  だがその気持ちが彼にちゃんと伝わっているのか……リチャードには分からなかった。  リチャードがオフィスに入ってすぐに、デスクの内線電話が鳴る。すでにデスクに着いていたセーラが代わりに出ようとしたのを、肩に手を載せて自分が来ているのを気付かせると、手を伸ばして受話器を取り上げた。 「ジョーンズです」 「俺だ」 「今日は早いな。俺なんて今オフィスに着いたところだぞ」 「昨日の仕事の続きが終わらないから、今朝は早く来たんだよ」 「どういうことだ?」  内線電話の主はハワードだった。 「昨日、別の事件が起きてスタッフ取られたせいで、バックグラウンドチェックが終わらなかったんだよ。俺が今朝手伝いに入って、やっとさっき終わったところなんだ。まったくこの忙しい時に幾つも事件が同時に起きて、困ったもんだよ。昨今経費削減とやらでスタッフの数も減らされてるし、全部しわ寄せが現場にきてやがる」 「仕方ないだろう。上の判断に、俺たちはあれこれ口を挟めるような立場じゃない」 「相変わらず優等生の模範解答だな、未来の警視総監殿」 「つまらない皮肉を言うな」 「とりあえずガートフィールド家に住んでる全員のチェックをしたが、マフィアと関わりがありそうなのは、やっぱり妻のエカテリーナぐらいだな。居候のグレンは叩けば埃が出そうな感じだったが、奴は小者だ。マフィアとの繋がりがあるって感じじゃない。とにかく、あの変な名前の机との関わりが分からないから、もう一度聞き込みに行こうと思ってるけど、お前も来るか?」 「もちろんだ。同行させて貰う」 「じゃ、地下駐車場で」  リチャードが地下駐車場へ行き、いつものハワードの車の助手席のドアを開けると、コーヒーの匂いが車内から漂ってきた。 「オフィスのコーヒーだけど構わないだろう? お前、今でも朝食べて来てないんじゃないか?」 「ああ。時間がないからな」  リチャードは乗り込むと、シートベルトを締め、カップホルダーに入れられていたコーヒー入りの紙コップを取り上げる。 「時間がないなら早く起きろよ。俺よりも便利なところに住んでるくせに」 「便利だと油断して、ついぎりぎりまで寝たくなるんだよ」 「あー、それ分かるわ……」  ハワードはキーを回して、車のエンジンを掛ける。  何ということのないつまらない会話をハワードと交わしていると、まるで特捜時代に戻ったかのような気持ちになる。リチャードは、あの頃には戻れないのだ、と分かっていたが、もう一度あの当時のように毎日神経をすり減らすような、きつい現場の仕事に身を置けたら……と一瞬思う。 「そう言えばベイカー元教官のチェックも一応したんだけど、特に何も出てこなかったな。真っ当な商売してるし、例の机の件以外で客と揉めてるってのもなさそうだった。同業者の評判もいいし、誰かに恨まれてるって話もない。警察官、教官時代の方も当たってみたけど、まあこっちは言わなくても分かる通り、何にも出てこなかった」 「だろうな。それは皆最初から承知の話だろう? どうして、つまらない噂話が署内で広まってるのかが分からない」 「ああ、あれね。本当に誰が言い出したんだか。そういやお前も、よく噂話の種にされてたよな」 「思い出したくもないよ」 「それはあれだろ? お前が男前だから、皆嫉妬してたってやつだろ?」 「お前までそんなこと言うのかよ。止めてくれ」 「だってそれしか理由が思い付かないだろうが。お前がAACUに左遷された途端、噂のうの字にも上がらなくなったのは、どう考えても嫉妬が原因だろう? まったく困った奴らだよな」  ハワードは同情するように言う。 「とにかく、もう最近じゃそういうのもなくなったから、俺としては一安心だよ」  リチャードは溜息交じりにそう言った。  正直、もう噂話をされるのは懲り懲りだった。自分自身には何の非もないのに、仕事とはまったく関係のないつまらない作り話をこそこそと陰で言われ、無視したつもりでも心のどこかで常に気にしている。そんな下らないことに気を遣うような真似は、二度としたくないと思っていた。  車は順調に進み、ロンドン中心部メイフェア地区に入る。ハワードは一台分だけ空いていたスペースを見つけて、車を縦列で停める。これから訪れるガートフィールドの家からは少し離れていたが、この辺りは駐車スペースを探すのだけでも一苦労なので、空いていただけ幸運だった。 「悪い、ちょっと電話一本入れたいんだけど」  リチャードはどうしてもレイが気になって、一言だけでもいいから声が聞きたい、と思っていた。  昨夜、彼の腕の中で思いがけず突然泣き出した彼が、どうしても忘れられなかったのだ。 ――何で急に泣き出したりしたんだろう……  あの後、幾ら尋ねても理由を言わないままだった。こういう時の彼は、いくらしつこく聞いたとしても、絶対に本当の理由を口にはしない。だから昨夜はリチャードも渋々諦めたのだ。  一晩経って気持ちが落ち着いていたら、話してくれるかもしれない。  ハワードが気を利かせて、先に車を降りる。それを見てから、リチャードは携帯電話の登録番号を押した。数コールですぐにレイが応答する。 「おはよう、レイ」 「おはよう」  やはり心なしか声に元気がない。 「……今日も会えないかな。仕事終わったらギャラリー行くけど」 「……ごめん。今日はちょっと用事があるから」  いつもなら用事があったとしても、何とか時間を作って会ってくれるのに、すげなく断られてリチャードは驚く。やはりレイは自分に対して何か怒っているに違いない。 「レイ、何か気に入らないことがあるなら、言ってくれよ」 「何にもないよ。もう行かないといけないから切るね。また連絡する」  レイは素っ気なくそう言うと、電話を切った。  ツーツーと寂しく電話が切れた音が携帯から響いている。リチャードは虚しい気持ちで画面を見つめていた。 ――レイ、どうしたんだ?

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