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第26話

 昨晩といい、この電話の会話といい、絶対にレイはおかしい。その原因が自分にあるのが分かっているのに、どうにも出来ないもどかしさがリチャードを苦しめる。  だが、今は勤務中だ。これ以上プライベートに煩わされて、自分の仕事をおろそかにする訳にはいかない。  未練を断ち切るように、携帯をジャケットのポケットに入れると、リチャードは車を降りた。二人は黙ったまま、ガートフィールド家の前まで歩いて行く。  ハワードは、リチャードに何も電話については尋ねなかった。長年の付き合いで、何も聞かれたくない、というリチャードの表情を敏感に読み取ったようだった。 「ちゃんとアポは取ってあるから、今日はこの家の住人は全員いる筈だ」  ハワードはちらり、とリチャードを見てそう言うと、ゲートを開けて中に入りドア脇のインターフォンを押す。 「どちら様でしょうか?」  女性の声で応答がある。 「METのフォークナー巡査部長です」 「分かりました」  返答があるのと同時にドアが開いた。中からブルネットの髪をアップにした、やけに色気のある若い女性が顔を出す。豊満な体を、きつそうな花柄の赤いワンピースで無理矢理包み込んでいる。 「皆様、広間でお待ちです」  フランス語訛りがある英語でそう答える。彼女がきっと看護師のフランス人女性なのだろう、とリチャードは思った。その瞬間彼女の体から、ふわり、と柑橘系の香水の香りがする。リチャードはその香りで、何かを思い出しかけた。 「おい、リチャード」  考え事をしていたせいで一瞬反応が遅れたのを、ハワードが気にして心配そうにリチャードの顔を覗き込む。 「何でもない」  リチャードはふと頭に浮かんだ考えが、ハワードに声を掛けられたことで、掴み損ねてどこかで消えていくのを感じていた。 ――何だったんだろう?  いや、今は仕事に集中しなくては、と思い直し、ハワードの後ろについて広間に入る。 「旦那様、METの刑事さんたちがおみえです」  フランス人看護師がそう言って広間のドアを開けると、ああ、とか、ううとかいう呻き声がした。この家の当主のポール・ガートフィールドだった。彼はソファにだらしなく座り、午前中からウィスキーグラスを傾けている。  アル中なのか? とリチャードは思ったが、もしかするとMETの警察官が来るというので、景気付けに一杯やっていたのかもしれない。 「まだ何か聞きたいことがあるのか?」  ポールは投げやりな口調でそう尋ねる。 「もう少しベイカーさんとの繋がりについて、お伺いしたいことがありまして」  ハワードがそう言うと、ポールは「そこに座って」と言って、自分と対面に置かれている三人掛けのソファを手で指し示した。  リチャードとハワードは言われた通り、ソファに腰を掛ける。目の前には、今日もよれよれのシャツと、膝の出たコーデュロイのボトムスを身につけているポールがおり、その隣には、明るめのブラウンカラーの髪を長く伸ばした険のある顔付きの40代ぐらいの女性が座っている。そしてコの字型になるように、二つの三人掛けのソファの間に置かれた二人掛けソファには、20代ぐらいのブルネットの髪を肩口で揃え、流行の洋服に身を包んだ女性と、30代とみられるダークブラウンの髪のハンサムな男性が座っていた。 「私はMETのフォークナー巡査部長、こちらはジョーンズ警部補です。お時間を割いて頂いてすみません。まずは、ご家族を紹介願えますか?」  すでに家族の簡単なプロフィールは、リチャードとハワードの頭の中に入っている。 「私はもう言わなくてもいいだろう? あの日は一日中家にいたって、昨日訊かれた時に答えたし」  ポールが怠そうにそう言う。 「ええ、結構です」  ハワードはちらり、とポールに視線を投げてから答える。相変わらずハワードは、ポールの態度が気に入らない様子だった。 「こちらは妻のカーチャ……エカテリーナだ」  ポールの隣に座っていた女性が、じっと無表情のまま二人を見遣る。その無表情な顔のせいなのか、年齢をあまり感じさせない女性だった。元高級コールガールだという話だったが、それも分かるような美貌の持ち主で、すらりとした長い足が短いスカートから伸びているのが印象的だった。 「エカテリーナさんは、元ピアニストというお話ですが、いつ英国へ?」  ハワードがメモを手に尋ねる。すでに彼女の元ピアニストという経歴は嘘だ、と知っていたが、嘘の経歴に付き合って騙された態度を取る。 「10年ほど前です。モスクワに比べたらロンドンの方がピアニストの仕事が多いので、こちらに移ってきました。その後ポールと出会って結婚したんです」  彼女は強いロシア語訛りの英語で答える。慣れなければ聞き取るのが少々難しいほどの強い訛りだ。  その答えを聞いて、ピアニストじゃなくてコールガールの仕事だろう、とリチャードは思ったが、表情には出さずに黙って自分もメモを取る。 「ポールさん、エカテリーナさんとはどのように知り会われたんですか?」 「友人の紹介ですよ。当時は私もシティでばりばり働いていて、交友関係も広かったものですからね。とある友人主催のパーティで彼女に会ったんです。あの頃は私も人気者で、あちこちのパーティで引っ張りだこでしたよ。残念ながら、今はもう半ば隠居状態ですがね」  彼はそう言うと、手にしていたグラスからウィスキーを呷る。どこか落ち着きのない態度は相変わらずだが、今日は訊かれるであろう質問を前もって予想して、自分が話す内容を準備していたからか、昨日よりは堂々とした態度だった。  そんな彼の様子を見ながら、確かポールは3年前に勤務していた友人の会社で横領事件を起こしていたんだったな、とリチャードは彼のプロフィールを思い出す。 「その後、すぐにご結婚されたんですか?」 「そうですね、割とすぐだったかな。この国はビザが厳しいから、きちんと法的に結婚しないと、彼女がこの国に留まれなかったからね。中途半端には出来なかったんだ」  見た目と態度で彼の人となりを判断していたが、意外と責任感があるのかもしれない、とリチャードは思いつつ、隣に黙って座っているエカテリーナを見る。彼女は無表情のままだ。よくこんなに愛想がなくてコールガールなんて出来たな、と不思議で仕方がない。 ――夜の仕事が上手ければ、愛想なんて関係ないのか?  身も蓋もないな、と心の中で苦笑する。 「一昨日の午後1時半から4時半の間に、エカテリーナさんはどこで何をされていたか教えて頂けますか?」 「……私は家にいました。地下にあるシネマルームでワインを飲みながら、映画を観ていたんです」 「お一人で観ていたんですか?」  ハワードがメモから顔を上げて尋ねる。 「ええ。一人ですけど」 「家にいたポールさんとは、ご一緒ではなかったんですか?」 「ポールは自分の部屋にでもいたんじゃありませんか? 夫婦だからといって24時間常に一緒にいる訳じゃないでしょう?」  ハワードのしつこい質問に、いらいらしたようにエカテリーナはそう答えた。元々険のある顔立ちなのが、余計にきつい表情になる。

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