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第29話
The Diary of Lord Wimborne/ウィンボーン卿の日記・9
雨が降っていた。いつまでも止まない雨だ。僕の心の中に永遠に降り続く、後悔という名の雨。
あの日、屋敷に僕とエレノアが行った日。あれが僕がエレノアと過ごした最後の日になってしまった。
帰りの車の中は重苦しい空気に包まれていて、彼女は俯いたまま何も、一言も口にすることはなかった。
僕の頭には白い包帯が巻かれていた。執事が応急処置をしてくれたのだ。彼は「ロンドンに戻られたら、すぐに病院に行って下さい」と心配そうに言った。彼はいつも無条件にこの屋敷の主である母に忠誠を誓っているが、同じぐらい僕もこの家にとっては、かけがえのない人物であると認めてくれていた。
そして彼が帰り際にこっそりと教えてくれたのが、例の僕の縁談とやらの話だった。
「ロード・チェニングのところのお嬢様との縁談の話かと思います」
「彼女はまだ学生だろう?」
僕は彼女を知っていた。ロード・チェニングは父方の遠縁で、彼女は小さい頃からよくうちの屋敷に出入りしていたからだ。
「ですから、学校を卒業されたらすぐに、というお話のようで……」
ロード・チェニングの娘、ルイーズは確か18歳だった筈。彼女は明るい性格で優しく、可愛らしい女性だったが、僕にとってみたら妹のような存在だった。
そんな彼女との縁談なんて、とてもじゃないが考えられなかった。
「なんてことだ……」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
そんなことよりも、僕にとってはエレノアと、そしてこれから生まれてくる僕たちの子供の方が心配だった。
とりあえずロンドンへ戻ろう。この話はそれからだ……
この時、エレノアにきちんと自分の気持ちを説明しなかったのがいけなかったのだ。
僕が優柔不断だったから。
ロンドンへ戻った後、僕はエレノアと数日間会えなかった。自分の会社で問題が起きて、それどころではなくなってしまったのだ。もしも会社が潰れでもしたら、雇っている社員たちに迷惑がかかる、取引先にもだ。これまでに積み上げてきた実績が、すべて無駄になってしまう。それだけは避けなければ……そう思ったらエレノアのことが二の次になってしまった。この時に無理をしてでも時間を作って会いに行っていれば、きっとこんな結末にはならなかったのに違いない。今更後悔しても遅いとは分かっていたが、遅すぎる後悔がいつまでも抜けない棘のように胸に鈍い痛みを残す。
あれは屋敷から、ロンドンへ戻って4日目の朝だった。
その日は朝から雨が降っていて、憂鬱な気持ちに更に拍車がかかっていた。その時、すでに僕の心の中に、どこか嫌な予感があったのかもしれない。
どうにか仕事が一段落したのを機に、エレノアに会っておこうと思った。それまで僕は、オフィス近くにあるホテルに泊まっていて、エレノアのフラットには行っていなかった。彼女には、仕事が大変な事態になってしまったことは電話で伝えてあった。心配する僕に彼女は明るく元気な声で励ますかのように「問題が片付くまではそちらに集中して。私は大丈夫だから」と言ってくれた。
僕はその言葉と声に騙されていた。いや、本当のことを言おう。彼女がどれだけ母の態度や言葉に傷ついていたのか、そして僕の煮え切らない態度に不安を感じていたのか、気付いていながら、見て見ぬ振りをしたのだ。
そしてその報いが訪れた。
フラットのドアを開けて「エレノア?」と彼女を呼んだ。
しん、と静まりかえった部屋。人の気配がまったくなかった。
僕はフラットの全部の部屋を見て回る。エレノアがどこにもいない。
そしてキッチンに入った時に、カウンターの上に一通の封筒と小さな青い箱、フラットの鍵が載せられているのに気が付いた。封筒の表には『フランシスへ』と彼女の手で書かれた自分への宛名が記されている。
その封筒の上の小さな青い箱……それはエレノアの誕生日に贈ったブルーサファイアの婚約指輪だった。
外の激しくなった雨音が、虚しく僕の耳の奥にいつまでも響き渡っていた。
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